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アリとキリギリスって有名な寓話があるけども、
あれってもともとイソップさんがつくった段階では「蟻(あり)と蝉(せみ)」だったって、ご存じですか。
夏のあいだ、アリたちは冬の食料をためるためにせっせと働き、キリギリスは歌を歌って遊んだ。
やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すんだけども見つからず、アリたちに頼んで食べ物をわけてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られ、キリギリスは餓死する。
このお話の教訓は、将来のことを考えずに行動すると、その将来がおとずれたときに困るよってこと。アリさんのように働き続けたら、あとでいい思いできるよってこと。
ここでみんな考えることがあると思うの。
自分はアリか、それともキリギリスか。
それで思った。私はときにアリさんで、ときにキリギリスなんだって。
そりゃあ自分がアリのようにせっせと努力しているときは、享楽主義のひとを横目に見ていて、なんか困ったことがあっても助けてやんないよーって、ちょっと哀れみの目で見る。ほんとはちょっと羨ましいくらい楽しそうだから、その代償をちゃんと自分はもらうんだって、そう思うんだよね。
でもね、すべてアリが正しいとは思わない。
だって、もし原作のように、蟻と蝉だったら・・・
セミは7日間しか生きられない生き物でしょ。
食べ物なんか探さないよ。今を楽しく生きるよ。
がんばって働いて今を楽しまないなんて、もったいない。
だからセミはあんなにうるさく、せいいっぱい歌ってる(鳴いてる)んじゃないかなあ。
禁欲主義も、享楽主義も、どっちが正しくてどっちが間違ってるとかじゃなくて。
人生に答えはないの。
っていうか、「私はアリ派だな」とか「私はキリギリス派だな」とか、そう思うことがもうすでに、
そのひとの、人生の答え。
こうなりたい!っていう自分像は確実に頭の中にあるの。
それを叶える自信もあるし、実現するための長く険しい山道を一歩一歩すすんでる。
途中で寄り道したり、疲れたりもするけど、ここ数年間で、かなりの距離、歩いたと思う。
でもね、その道の途中でいろんなものが失われていく。
調子がよかったりすると、後ろふりかえらずに突っ走っちゃうから、落し物に気が付かない。
反対に落ち込んでるときも、下向いて歩いてるから、まわりが見えてないの。
それで、失くしものに気がついたときは、もうずいぶん先を歩いてて、
「あれ? いつから無いんだろ・・」って、泣きたい気持ちになる。
いつどんなときだって、必要としていたものなら、失くさなかったはず。
日ごとにポケットからとりだして、確認していたら、落としたとしてもすぐに気がついたはず。
――ううん、違う。
私が失くしたのは、ポケットからこぼれ落ちたものなんかじゃない。
左手を預けてたはずの、右手。
ちょっと手を離していた隙に、はぐれちゃったんだ。
前にいるのか後ろにいるのか、別の道を歩いているのかも、わからない。
あの温かい右手をもういちど握りたい。
見失ってしまったことを謝りたい。
だから私は理想の自分像がある場所を目指して、今日も登る。
酸素が薄くて胸が苦しくても、涙をこらえて歩き続ける。
だって、山の頂上に立ってる私はきっと見つけやすいから。
追いかけてきてくれるかも・・・しれないでしょ?