優しいとは

誰からの見ての優しいだろう。

例えば親からの子供への優しさとは、周りから見たり親視点で客観的に見れば優しいと思うが、子供からしたらその優しさに気づかなかったり、煩わしささえも感じるだろう。

いいことをすると気持ちがいい。

これは私だけ感じることではないだろう。

いいことをする理由が人から好かれないなどの利己的動機、つまりいいことをしたいからするという利他的動機どちらがいいのだろう。

電車で席を譲る時、譲る時や見ている人によく思われたいから讓るのと単純に譲った方がいいと思ったから譲るどちらのほうがいいなんていうのはあきらかに後者であるにはちがいない。

みんなが誰かのために頑張ったり、行動できたりするなら今が優しい社会になっている。
そうなっていないのは、人間は自分の欲が勝ってしまう生き物だからという他ない。

比較対象を変えよう。
いいことをするのと、いいことをしないので比べたら?

そう。いいことをする方に決まっている。

いいことをしたという結果がある以上、それが利他的か利己的かなんてことはいいことをしたという前提の上に成り立っている。偽善者とか批判する人がいるが偽善かどうかはいいことをした本人にしかわからない。それなのに、偽善はダメだとかいう考え方があるが、私の場合、

やらない善よりやる偽善

これを大切にしている。
純粋な善がないと解決できない問題もある。例えば道端で純粋な善の気持ちでゴミを拾うのと、清掃員とか仕事でゴミを拾うのどちらもゴミを拾えばゴミ問題が少し良くなっていくが拾わなかったらそこで終わるのだ。だからまずはいいことをしよう。理由は後付けでも構わないだろう。

少し違うが、いい事なんだけど誰もやりたがらない自分がそれをやっても利己的にプラスになる利益も大してないそういうとき、その誰もやらないいいことをやろうと思えるのが純粋な善で、誰もやらないけど誰かやらなくちゃいけない。そういうことがあるときにそれが出来る人は素晴らしい。

ルールがない社会はない。ルールがみんなの幸せのためにあるように、それがみんなが少し我慢しなきゃいけない状況のときというのはもう利他的な善を実践しているということだ。


全体的にみると利己的な善をやめた場合、いいことをする回数自体が減るから利他的な善を認めざるおえない。しかし、そのいいことを少数でも純粋な善の気持ちを持ってできる人というのは絶対に必要なのは間違いない。

もし、純粋にいいことをしたいと思うのなら見返りを求めず他人の意見に騙されずにみんなに優しさを無条件で振りまく、それが優しいということだろう。



一つ補足すると私自身は優しい人になりたいという感情によって、人に優しくしている。もちろんそこに利己的な、意志が介在することはない。

ということをこの文を見て考えたので、誰かの考える参考にして欲しいなと思い投稿しました。