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http://sidkitakaze.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-1ab9.html


アメブロは、不具合が多すぎます。

この記事をアップするのでさえ、もう5,6回トライしています。

字数がオーバーしているわけでもないのに、字数超過の表示が出たり、

サーバー自体に問題があるのか、私のパソコン(最新型ですが)との相性が悪いにしても、

能力不足なことは否めないでしょう。




女子プロ野球の試合を見に行って、 
それが成功だとか失敗だとかの話になる。 
競技レベルが上がれば成功なのか。 
(一時のアメリカの女子バレーボールみたいに、その世界最強チームの選手たち以外はほとんど世界レベルに達していない) 
競技人口が増えれば成功なのか。 
観客が入っても入場料が得られなければ失敗なのか。 
(18歳以下の女性は無料で、小学生の女児で満員となっても、維持できない) 
或いは、そんな収入がなくてもスポンサーが別な本業(たとえば女子野球の場合は健康食品会社)で儲かっていてそれのあぶく銭分を宣伝広告費の大義名分で吐きだす。 
パトロンさえしっかりしていれば、それで存続成立だけはする 
まるで今のほとんどの日本映画と同じ仕組み(製作費を出しただまされた企業がただただ赤字=映画興行自体ではもうからない=を飲み、スタッフやキャストは、金にならない仕事をしてもギャラは受け取る)をいただけば、それで成立していると言えるのか。 

何をもってして、成功とか、成果とか言うのか。 

このことを考えたとき、 
物々交換における貨幣の登場のように、 
信用しきっては心までつぶされてしまうけれども、 
しかし、普遍として利用するにはちょうどいい、みたいなもの。 
数字(内情=統計の取り方など=は別にして自殺者が減ったとかいうデータも同じ利用のされ方だと思う)がそうだ。 

だから『ルーキーズ』がいい映画かどうか、成功かどうか。 
茨木のり子の詩が、いい詩なのか、成功かどうか。 
女子プロ野球がいい団体なのか、成功なのか。 

届く人にしか届かない。 
それはしょうがない。 
としかいいようがない。 

>私は現今の世相とあわせて考えると「少し冷ややかな印象を持つ」と申し上げました。 
むしろ今の時代でもなお(あるいは時代にかかわらず個人的な理由でも良いのですが)この詩を取り上げる「こころ」を教えていただけると嬉しいです。 

やはり、届く人には届く。 
そう思っているからです。 
『ルーキーズ』に感動したというその瞳にウソはなく、 
ある人には100円の入場料を払う価値もなく、 
ある人にとっては、永遠の名作。 
貨幣は流通しているが、見えないところでその仕組み、普遍に対して闘いを挑む。 
30年の時を超えて、なお映画に使用されている、というその点が、 
そしてこの日記でも引用されているというその点が、 
現状、滅びていない詩とも言えるのではないでしょうか。 

『小さなスナック』という映画が昔あって、 
そこは、今でいえば、このミクシィ内のそれぞれのマイミクたち、とも言える場所で、なんというか、新宿ゴールデン街で床屋談義以下の会話しかしていないのに、世間を牛耳っているかのような、映画屋さんみたいな、 
要は、そのスナックに行けば有名人、外に出たら、誰も知らない。 
いや、知ってる人は知っている。 
なんだってそうだ。 
ある人を取材していたら、弟が歌舞伎の中村東蔵だった。 
「それだれですか?」と私が言ったら、 
「あんた、中村東蔵も知らないの」と、驚かれた。 

川端友紀って知ってますか? 
と、ここに書いても知らない人は知らないだろう。 
女子プロ野球の首位打者だが、小さなスナックでは有名だ。 

山田太一は、『家族のなかで有名人であれば、それでいいじゃないか』という主張をしていて、 
ありきたりを否定しながら、そのありきたりに復讐される男(『早春スケッチブック』)を描いてみたり、 

無知蒙昧であろうが、別な場所ではかなり恥ずかしい人間であろうが、 
人生分(せいぜい100年、病気や事故ではもっと少ない)やり過ごせればいい。 
マスメディアを伝って、影響力、効力があるとかないとか、 
ビートルズにしろ、もろ刃の剣だ。 
届く人に届けばいい。 
伝わる人に伝わればいい。 
という期待しかないのかな。 
今の気持ちをここに書くとしたなら。 

それ以上への広がりは断念していると言える。 

http://www.youtube.com/watch?v=u5_S_fKj-fg


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本題と少しずれてしまいますが, 

茨木の同名のタイトルの詩集が出版されたのは,1977年のようですね。 
当時はかなり斬新な印象で受けとられたのではないかと思いました(私はタイムリーには知りませんでしたが)。 

ただ,それから30年たった今,自殺が年間3万人,引きこもりが推計で360万人と言われるこの国で,この詩に少し冷ややかな印象を持つのは,私だけでしょうか。 

明日死のうかと思っている,いじめに苦しむ中学生は,いつ感受性を磨くのか。 
工場と寮を毎日毎日往復するだけの,つねに会社に「監視」されているような派遣従業員は,いつ感受性が磨けるだろうか。 
ネグレクトされた子供は,どうやって感受性を磨くのか。 
いつも仕事に追われ疲れ果てている我々は,どうやって感受性を磨くのか

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Kさま。

じっくりと考える時間がなく、日にちが過ぎてしまいました。すいません。 

>ただ,それから30年たった今,自殺が年間3万人,引きこもりが推計で360万人と言われるこの国で,この詩に少し冷ややかな印象を持つのは,私だけでしょうか。 

以上の文章から印象を受けたのは、芸術なり、芸能、表現が、 
心のケアというか、その効力に期待しても絶望的(しらじらしい)という風に読んだのですが。 

>明日死のうかと思っている,いじめに苦しむ中学生は,いつ感受性を磨くのか。 

やはり、今でしかない。 
この詩が映画のなかで用いられる場所は、 
定時制高校の先生が、最後の進級の段になって、 
落第の危機を持つ生徒が15人いる。 
この生徒たちも含め、この映画で描かれる定時制生徒の多くは問題(仕事もしているし、家庭環境もままならず、もともと学業から放り出された人間たち)を抱えていて、 
授業を受けるということ自体にかなりの困難が付きまとう、ともいえる。 
それでも、 
最後の4日間ぐらいは、補習授業を受けに来てくれ、 
そうしたら、進級できるんだ。 
その私(先生)の思いに対して、いろいろ文句はあるだろう。 
だけど、ここでは下らない理屈をつけてくれるな。せめて、最後の授業を受けに来てくれ。 
という頼み、祈り、願いの仮託として、 
この詩が取り上げられる。 

世の中は、矛盾し不条理であるが、しかし、全くそこからドロップアウトして生きていけるだけのものを持っていないならば、 
せめて小さな資格(卒業証書とか)ぐらい、取っておいてくれ。頼む。 
そこで安っぽい、(生で生きている)お前たちに不似合いな理屈をこねて、 
わずかな切符であれ、捨てずに獲得していってくれ。 
そこでまたしても自信を勝手に喪失させられる世間の尻馬に乗せられるような状況にはならないでくれ。 
つまり、進級のチャンスを放棄する=学業に対す怠惰によって、 
『ほれ、見ろ。補習を受ける辛抱さえ足りない。責任感がない。エトセトラ 
そう非難、攻撃される材料を与えることになる。 
これによってさらに生きづらくなる。 
だから頼むよ!! 
頼むぜ。 
これが(この映画の中での)感受性を磨け、馬鹿ものよ、の詩に託されたものだと思う。 

3万人の自殺とか言う数字とは関係がないと思うのは、 
この詩に限らず、知る人にしか知られないし、 
知ったとしても届く人にしか届かない。 
芸術にそんな力はない。 
飢えた人、のどの渇いた人、には沁み込む。 
それでいい。 

この詩が知られていないとか、知られても届かないとか、 
影響力がない、ということを、 
いろいろな意味で残念に思うが、それ以上の期待について、私は断念しているともいえる。 

『ルーキーズ』という映画が去年、ダントツのナンバーワン・ヒットを飛ばしたが、映画通(蔑称としてシネフィルという言葉があるが)の間では、 
この映画は全然面白くない、という点で一致していて、 
面白がる人たちを、あんなひどいものを見る馬鹿な大衆と逆に蔑んで 
「我々の間であれを褒める者はいない」という言葉を使っているのを耳にしてきた。 
私がそういう人間たちに近い位置にいるので、それを耳にするのは仕方ないのだが、私は少なくとも違和感を覚えてはいる。 
しかし、去年、女子プロ野球選手たちの取材をしたときに、 
「最近観た映画で、面白かったもの、何かありましたか?あったら教えてください」 
という質問に、 
多くが『ルーキーズ』と満面に笑顔をたたえて答えていた。 
その表情にウソはなく、面白かったという声も自然な感情そのものであった。 

この話をシネフィルにしてみたところで、 
「女子野球選手なんてのは、(映画を見る力のない)馬鹿ばかりだから・・・」 
といった答えが返ってくるのは目に見えている。 

しかし、優れたものとは何か。