豚を盗む

著者 佐藤正午
発行所 岩波書店
2005 \1700


申し訳ない。
今回はブログ発行人自身のえせエッセーということになります。
ので興味なき方は他のより内容あるブログへお移りください。


プロの作家がいかにしてうまく書名をつけて読者に読んでみようという気にさせるのか、

そんなことを考えさせられました。

私がこの「豚を盗む」を手に取ることになった動機はなんだろうか。

それはその書名の不思議な響きにほかならないからです。

なんともうまい書名ではないですか。それが目に入ったとたん、この本を手に取っていましたからね。
しかし その本の中のどのエッセーにも「豚を盗む」なるタイトルはないのです。

これはまあ詐欺的行為ではないのでしょうかね。(もっとも最後あたりでそのタイトルにした理由は述べていました。)
作家がつけた書名を編集者が手直ししたり、全く違う書名にしたという話は聞いたことがあります。


そうなると 内容と無関係であっても、興味を持たせる書名、その本を手に取らせる気にさせる書名はそれ独自の価値を認めるべきひとつの独立した作品と言えるのでしょうね。


というわけで、(どなたかに対しては)申し訳ないが内容についてのコメントは特にするところのない作品でした。


成功はゴミ箱の中に
レイ・クロッグ自伝

著者 レイ・クロッグ、ロバート・アンダーソン
訳者 野崎雅恵

発行所 プレジデント社
2007 \1429


マクドナルドを世界的チェーンにした人の自伝だ。
ユニクロの柳井正、ソフトバンクの孫正義の解説も付いている。
事業を成功させに必要な名言が多数つまっている。


しかしぼくがいちばん興味を持ったのはその名言ではない。
このレイ・クロッグが再婚相手となる女性と最初に会った場面だ。


演奏が終わると、ジムが私をオルガニストに紹介してくれた。
何ということだ!
彼女の美しさに驚いた。彼女も私も既婚者だったので、目が合った瞬間のときめきは打ち消さなければならなかった。

だが、私にはできなかった。


レイにとって女性もまた、魅力ある事業と同様に、「手に入れる」べきもののひとつなのだった。
新しい女性の出現によって、反射的に、結果的に、または自動的に、魅力を失うこととなる女性は、「いままでありがとう、

お礼はするよ」という具合にて離婚の対象となる。


私はエセルと離婚するため、マクドナルドの株以外、私が所有していたものすべてを彼女に譲った。家、車、すべての保険、そして年3万ドルという一生不自由なく暮らせる財産をエセルは手に入れたのだ。


ついにジョニが離婚に承諾さえしてくれれば、いつでも結婚できる用意が整った。そのことを考えるとたまらなくうれしい気持ちになり、本当に待ち遠しかった。


これだけの代償があれば十分だろう、満足してくれ、と言わんばかりの内容だ。

レイなる事業家は確かに事業の分野では優れた才能を持っていた。
しかし元妻にとっては、その人生をもてあそばれたろくでなしであったにちがいない。

金儲けはそれなりの価値を持つかもしれない。

でもねえ、ひとりの人間を手に入れることと、事業を同じように考えるのはいかがなものかねえ。

自分の事業の成功と、離婚に成功して、新しい再婚相手を手に入れたことを、まるで同じ種類の事柄であるかのように、誇らしく公表しているこの人物を、好きにはなれないな。


ジェネレーションY
日本を変える新たな世代


編者 日本経済新聞社
発行所 日本経済新聞社
2005 \1500

Y世代、義務教育を終了したときにバブルが崩壊したことから、「日本で経済成長を体験していない最初の世代」でもあり、

新たな価値観を持つ若者像(まえがき)



体験していない、ということは外部の影響を受けていないということだ。
それだけ純粋であり、ある意味では強いと言える。
知らないということから生まれる強さ、若さとはそんな魅力を持つ。
そして人間はどの世代もこのような強さを持って成長し、挑戦し、体験し、老いる。



作家 乙一
「僕みたいに、本に敷居の高さを感じている人が初めて読む作家でありたい。ジャンルの格や定義なんてどうでもいい。『これはミステリー小説の定義に合っているか』などと考えながら読む必要はない。過去の作品や他の作家の予備知識などが一切なくても楽しめる本こそが、本当に面白い本だと思う」


なんとなく現在の体制によって何かを強制されているように感じる拘束感。
自分はそんなものに縛られることなく、自由に生きたい。
こんな自由な精神を具体化していくこと、それがこの作家の生き方なのだろう。

団塊の世代と呼ばれる世代もまた同じ種類の体験を持つ。
そして時間の経過とともに若い世代を拘束するような文化を形成してしまっている。
 
X世代→Y世代→Z世代と絶えることなくこの拘束感を打ち破るエネルギーが持続することを。

お金の現実
著者 岡本史郎
発行所 ダイヤモンド社
2005 \1600



人の価値観とは面白いものだ。なぜか、みんなが似たような価値観を持つ。
そこで、みんなと少し違う価値観を持ってみると、資本主義の世界は非常に生きやすいものになる。
一見、人がやらないことには勇気がいるけど、人が興味を持たないものには、おいしいものが多いのが資本主義の世界だ。


なかなかいいポイントだ。


大多数の人間が同じような価値観で生きている。
そこにはひとつの共通の目標が生まれる。
必然的にその目標をめざす激しい競争が起こる。
同じコースを少しでも前に出ようと走るマラソンランナーの群れが生まれる。


もし大多数と違う目標を持てばどうか。
もしかすると一人だけしか走らないコースを走ることになるかも知れない。
そこには少なくとも他者との競争は生まれないだろう。


ところで、なぜ大多数が同じ価値観を持つようになるのか。

教育の成果か。マスメディアによる洗脳か。社会的存在たる人間の性質か。

もしかすると他者との競争に勝利することに快感を覚えるのが人間の本性なのか。


ま、ともかくちょっと大多数の群れから離れることだ。
離れることで、それまでの固定した視点を変更してみることになる。


そんなことで自分についてあらためて考えることができるかもしれない。


          齋藤式潜在力開発メソッド

               著   齋藤 孝
                  発行所 株式会社マガジンハウス
                  2004 \1200



とにかく、勉強は面白くないし、好きではなかった。けれども「勉強は量である」と割り切り、量をこなすことで頭をレッドゾーンにまで追い込んでいったのだ。そうすると、起きている時間はもちろんのこと、寝ている間にまでその教科のことを夢に見て学習が進んでいくようになる。これなどもある意味で潜在能力を発揮する勉強方法だったのではないかと思っている。


なんと夢を与えてくれることばなのか。
この「潜在能力」とは。
ぼくの衰えていくだけのような脳にもまだそんなものが残っているんだろうか。
そう信じたい。
それともほんとに能力のある筆者にうまくだまされているのかも。
この種の本は奇妙な後味が残ってしまう。


勉強は量できまる。それは若い頃必死で英語を勉強していたときにも感じていたことだ。
うまい学習法などを人に聞いたり、いろいろ工夫する時間があれば、その時間を勉強にあてたほうがずっと効率的だ。

だいたい「しても、できない」とか「やりかたがわからない」と言っている人間のほとんどは「している」と言えないくらいの量しかしていない。


簡単に言えば、ある人が自転車の練習をしているとする。彼は100回転んだけれど101回目に乗れるようになった。すると彼の場合、101回目が、練習量に対して質的な変化が起きた地点なのだ。それ以前に練習を止めてしまったのでは、彼は相変わらず自転車に乗れず、ゼロと変わらない。


どっかで聞いたようなことばだ。無限の努力を強制していることばだ。
でも、まあこれくらいの粘りがない限り、ものごとは達成できないのかね。
シシフォスの神話を思い出してしまった。
あと1回が成功をもたらすかもしれない。
そんなことを期待して努力することそれ自体がが幸せなのか、とも思う。



養生のお手本  あの人このかた72例

著者 出久根達郎
発行所 清流出版株式会社
2005 \1600


笠智衆の、頼りなげな歩き方など(特にその後ろ姿)、まさに老人そのもの、また、口数少なく、笑顔でうなずくしぐさも、老い特有の寂しさがただよう。もっとも、ご本人も至って寡黙なご仁で、性格だけでなく、生まれ故郷の、いわば風土性による、と自伝『あるがままに』で述べている。


映画の中の笠智衆は確かに大変な存在感だ。わざとらしい演技ではない。
無駄な動きをすべて削り取った武道家、競技者、芸人と同じ。
それがある程度極限に達したレベルなのだろう。


どんなに名演技をしようとしてもやはりその役者の本当の姿、演技ではない生の姿にはかなわない、ということだろう。


これは役者の世界だけじゃない。
自分が生まれながらに持っているもの、それを大切にしなければいけない。

無理をしていくら演技して生活しても、いくらりっぱに着飾ろうともむだ。

他人からすれば下手な演技くらいかんたんに見破られてしまうんだからね。


「厳しさを失ったら落ちるところまで落ちますよ。例えば、調子が悪くて50パーセントの力しか出せないのなら、50パーセントの十割を出そうと努力する。そうすれば、光は見えてくると思いますね。」
小松成美『イチロー・インタビュー』(新潮社)から。


これが勝負の世界の生き方だろう。

みなが100パーセントの力で生きている中で力を出し切ることを惜しんでいて勝てるはずがない。

それだけの気力がなくなったらおしまい。そこにしか美しさは生まれない。

そして、観客の期待することも結局はその美しさなのだから。


有名人がいかに精一杯に自分の職業を生きているか。
そのための体力、気力をどう維持しているかをまとめたもの。


読者次第で、参考になるもの、ならぬものとさまざま。

なかには自分の好きなことがすなわち健康法だと、都合のよいものもありおもしろい。



本物の実力のつけ方

著者 榊原 英資・和田秀樹
東京書籍株式会社
2004 \1300+税


榊原 君子豹変と言うけれど、やはり環境が変わったら人は変わらなければいけない。私は仕事で為替の世界を見てきたけど、そこで学んだのは「失敗する人は自説に固執する」ということです。逆に成功する人は概して退却戦がうまい。為替のようにたえず変動しているものは必ずどこかで退却しなければいけないわけで、引き際の決断など退却戦がうまくできないようでは最後に大失敗をすることになりかねません。




それが何についてのものであれひとつの「説」が生まれるのは環境による。
自分の経験、過去のできごと、多くの人が記録してきたこと、それらの総合として「説」が生まれる。
だれでも自分の説が正しいと思いたい。

それが過去の出来事ばかりでなく、現在の、未来の出来事にも当てはまるのだと思いたい。
そしてりっぱな「自説」が完成すると、環境から生まれたはずの自説であることを忘れるわけだ。自説を中心に、現実はその正しさを立証するための材料にしたがる。

それで成功できるわけはない。

頑固に自分のやり方にこだわるのは危険だ。卑怯とか、変節者とか、信念がないとか、言われることをかっこう悪いと思わない方が賢明だ。


そのように考えると、意外にも、今の多くの政治家の生き方はうまいと言えるのかも。


対談集。 しかし対談ばかりでなくそれぞれの「自説」を述べる文章もかなりあり、おもしろい。

金子勝の仕事道!---人生を獲得する職業人

著者 金子勝
発行所 株式会社 岩波書店
2006 \1500+税



考えてみれば、欧州の首脳がナチス幹部の墓参りをすれば、その政治生命は断たれるだろう。ところが、日本のメディアは、ひたすら中韓両国の反日教育や政治的利用のせいだと煽って、他国に言われて靖国参拝を止めるのはなめられると、人々を煽る。


なかなか辛口のメディア批判が続いて気持ちよい。

前首相の国民を大衆演劇の客であるかのように扱うやりかたも腹立たしかった。

しかし、それを一方で厳しく批判しながら、他の紙面・番組では大きく取り上げてはやしたのも同じメディアだった。

メディアがお互いをその種の場面で批判し合うことはほとんどない。

メディアといえど利益なしでは生きてはいけぬ、というところだろうか。


そして、いろいろな方とお会いしているうちに、不思議なことに気づいてきた。それは、どんな職業でもその職を極めようとすると、必ずこの社会とどこかで衝突してしまうという現実であり、またそれと格闘しているからこそ、その人は何かを革新し、何かを達成できるのだろう、ということである。


おもしろいとらえ方だ。

一般に職業は個人と社会をつなぐ媒体の役割をになうものとされる。

しかしここで金子は職を究極まで追求するとそれは現在の社会のあり方をそのまま受け入れることができない存在あるいは活動になるとしている。


まあそこまでひとつの職業を極める人は多くはないだろうが、しかし、そういう人物が多くなればこの社会の全体的仕組みも変わってくるだろうとは思う。



本書の冒頭で金子は自分のこれまでの人生を語っている。

人のことをあれこれ論じる前置きとしてまず自分を語る、そういう姿勢は好感が持てる。



この国のけじめ
著者 藤原正彦
発行所 株式会社文藝春秋 2006 \1190+税




近ごろ、人々は勝ち馬に乗ることに汲々とするばかりでなく、乗り損ねた人々を嘲笑するようにもなった。先年の郵政改革のときは劇的にこの風潮が現出した。


側隠はかけらもなかった。日本人もここまでするようになったか、との感に打たれた。


これにより、かろうじて残っている日本の誇る美しい情緒や武士道精神に由来する形は傷ついている。さらには市場原理の副産物である金銭至上主義が跋扈している。



勝ち馬なる表現はぼくも嫌いだ。それはけっして負けた側に立つことばではない。他を押しのけ、け落とし、欺くことで勝者となった少数派の使う尊大な表現である。


武士道精神なる表現はぼくは嫌いだ。

武士なるものを他の市民と異なるすばらしい集団であるかのようにみなす表現だからだ。彼らこそ一般市民を支配し、抑圧した特権階級ではなかったか。そんな集団がどのような精神を持っていても、それはその集団内の秩序を維持するための手段にほかならない。


藤原は武士道をほめたたえている。
乃木将軍、明治天皇なども同様にすばらしいらしい。
現代に必要な精神とは昔に帰ることなのか。

ちがいますよ。

現代に必要なのはもっと人間的な現代の精神です。


勝ち馬がおかしいならば、勝ち馬ではない正しい精神のありかたですよね。
それは武士道とは違う内容のものであるはずです。

ぼくの藤原に対する評価は少しダウンした。


日本人として育てるなら、小学校で外国語を導入するのは愚かである。


不況克服のためなら何でもする、というのが経済界の基本姿勢である。そのためか、あたかも不況に対する自らの責任を糊塗し転嫁させようとするかの如く、思いつきだけで政治、経済、社会に口を出し、ついには教育にまで口をはさむ。


この点ではまったく賛成。よく言ってくれました。
政策として教育を論じるのなら、あまり経済界の意見に左右されてはいけないのではないか。

経済人が見識ある人間である根拠はないからね。利益を上げる能力はあると思うが。


というわけでこの藤原という人生案内(Y新聞)でしか知らなかった人物が意外に武士などという階級にあこがれをいだく保守的な人物であることを発見したエッセイであった。

実は、もっと自由な発想をする人だと思っていたので、ややがっかりした。

が、ある意味で、どこかにいそうな少しがんこなおやじだったのか、と納得もした。



壊れ窓理論の経営学
       著者 マイケル・レヴィン
       訳者 佐藤 桂
       発行所株式会社 光文社 2006 \1500



汚いトイレとは、壊れた窓である。


一枚の割れた窓のようなちょっとした綻びが、毎日そこを通りかかる人々に向かって強いシグナルを発する。壊れたまま修理されなければ、建物の所有者はそれに気づいていないか、目をつぶっているという意味だ。ということは、近辺では窃盗や破壊行為や暴行など、もっと深刻な犯罪までも見逃されているのかもしれない。

社会心理学者に言わせれば、壊れた一枚の窓が修理されずに放置されていたら、残りの窓もじきに壊れる。



書店に入る。しばらくするとトイレにいきたくなる。(紙またはインクに便意を催す作用あるとか)そのトイレが快適なものであればそのあとも気持ちよく本を吟味できる。逆の場合、その書店の店長の無神経さを想像してしまう。

そういえば、店員の大声での私語が気になる。他店との電話でのやりとりの声が店内にひびき渡る。レジ係はにこりともしない。店長らしき人物が店員にあれこれと指示する声も不必要に大きく耳障り。そんなこと客としては聞きたくないよ。

つまり 来客に快適に買い物をさせることに関する基本的なことが徹底できていないということ。それがその店の営業全体に決定的な影響を与えているということ。わかってないんだろうか。


生来のものでなければ、強迫は体得する技術である。壊れ窓に気づき、ただちに行動を起こすよう自分を訓練する。窓が直るまで、あるいは窓を直す手段を講じて、それが正しく働きはじめるまではつぎの予定に進まない。もし壊れ窓が従業員だったり会社の方針だったりするなら、できるだけ早く行動に出て、全従業員にそのことをわからせる。決まりを知らされなければ、人がそれに従うはずもないからだ。


たまに銀行に行く。A行へ行く。どっちが客なんだろうか。と思ってしまう応対だ。手続きが終わり帰り際にも何の言葉もない。気まずくなってこちらから「どうも」などといってしまうくらいだ。ローンのつきあいが終わればもうA行とのつきあいはやめよう。

B行へ行く。足を踏み入れたとたん、笑顔であいさつされる。帰り際には窓口の行員全員から感謝のことばが発せられる。A行、B行、ぼくがした用事の内容は同じ、つまり銀行の利益は同じだ。しかしおそらく数ヶ月後、A行にはもうぼくの口座はないだろう。


書店でも、銀行でも、スーパーでも、役所でも思い当たることばかりだ。なんでこういうことに気がつかないのか、ということはたくさんある。


ぼく自身の体験と重ね合わせながら読んだ。ひとつひとつ納得した。企業の経営者でも責任者でないぼくでもわかるところが多かった。