土に手で触れると、湿っていて気持ち悪い。ただそれも少しの間だけであり、一度腹を決めてしまえば、その感触はひやりとして心地よいものであるか、あるいは土の深いところはじんわりと温かい。手の皺の間や爪の間にざらついた土が食い込む不快さ、虫や危険な菌がいるかもしれないという不安、生命や自然の温かみのようなものに包まれている高揚、単に肉感的な柔らかさ硬さ。

 

しかし、最後に土に触れたのはいつだろうか?

 

それどころか最後に「触れた」のはいつだろうか?

 

私がこれをタイプするキーボードはプラスチック製で、打つたびに丁度良く心地よい反発を返してくれる。私は、透明で丈夫だが軽いペットボトルに入った水を、持ちやすく割れにくいプラスチックのコップに注ぐ。硬く十分に重々しいドアノブはアルミでできている。すべて完璧に、何の不便も無くしつらえられている。これらの物たちはそれぞれであることを疑問に持たないし、私に問いかけもしない。私は確かにこれらを用いているが、これらに触れてはいない。

 

最後に「嗅いだ」のはいつだろうか?

 

雨の前の外のあの不思議な匂いは、土から来る匂いだから都市ではしないらしい。ムスクの匂いの芳香剤や香水を嗅いだことはあるが、私はムスクが何なのか知らないし、多分嗅いだこともない。

 

最後に「遊んだ」のはいつだろうか?

 

大人になると友人と遊ぶということがなくなり、多くはたまに飲みに行って近況を交換するということで済む。この「飲み」は、それ以外の行為で代替されることはない。飲む代わりに鬼ごっこしたり、自転車を乗り回したり、サッカーしたりということはあり得ない。

 

最後に「走った」のは?最後に「作った」のは?最後に「戦った」のは?「勝った」のは、「負けた」のは?

 

あなたが最後に「生きた」のはいつだろうか?

 

タイトルの言葉は出典がわからないが、何かの小説の言葉の引用を何かで見た孫引きだ。もちろん、田舎なら本当なのか、土は本当でアスファルトは偽物なのかとか、突っ込みたい向きもあるだろうが、とりあえず何が言いたいのかは分かってもらえると思う。キーボードも間違いなく一つの体験だ。しかし筆やペンで書くのや、人と向かい合って語るのとは異なって、ここにはうっすらと、まるで夏の昼の影のように完全に重なり合いながら、深く微妙な所で異なるものが覆いかぶさっている。端的に言えば、欺瞞がある。これが欺瞞であることは、書きはせずにタイプするのを我々が恥じているという、この事実が何よりの証拠となる。

 

私は考えるときに顎を触る癖がある。自分の肌を撫でるのは悪い気はしないものだ。特に耳たぶの裏などは、柔らかさと滑らかさを兼ね備えており、手の甲、前腕の裏と並んで私の体の穴場スポットだ(私の体のおすすめスポットについては、筆を改めて特集する)。だが夜には髭が伸び、顎を触る感触はかなり変わる。顎を撫でるというより、髭でできた絨毯を撫でているような感じだ。そして二日も剃らずにいると、剃った後の顔の触り心地は不可解なほどすべすべしている。端的に言えばそこには驚きが、意外さがある。私は自分の肌に触れる。

 

私の家は悪臭がする。私はゲームで遊ぶし、友達と一緒に遊ぶこともある。体験と疑似体験は完全に密着しており、その境目を指摘することは困難だ。友達とゲームするのは会えないからだが、会って遊ぶのとオンラインでゲームするのはまったく異なるそれぞれが独立して一つの体験でもある。

 

私は、「だからすべての体験を大事にしよう」という、今すぐ肛門から自分の下利便を一気飲みする体験をしてほしいゴミどものような結論を出したいのではない。また、「だから体験と疑似体験の区別をつけるのは不毛だ」などと言い出す、何の情熱も無いくせに良い子ぶってはおきたい偽善者どもに関しては、まとめて一つのギロチン台の上に積み上げて、全員の首を一度に不毛にしてやりたいくらいだ。

 

私は問いたい、そしてただそれだけだ。それは体験か?疑似体験ではないか?と。