ディズニーの犬のキャクターに

グーフィーと、プルートがいる

グーフィーは、気のいい(多少間のぬけた)ミッキーの友達

いっぽうプルートは なんと(ネズミである)ミッキーの「ペット」なのだ。

ウォルトさんは、この辺設定に矛盾を感じなかったのか?

まあ、ネズミが蒸気船を運転したり、魔法使いの弟子になたりするのも、

抵抗がなかったのか?というとそうでもないんだが・・・

鍵は「擬人化」と「デフォルメ」だろう。

ミッキーとグーフィーは、擬人化されたネズミと犬だ

二人の会話は 対等の友人同士だ

しかし、プルートは「デフォルメ」はされているが、「擬人化」されていない。

けっして、ミッキーと話をすることはない。

いっぽうミッキーにしてみれば、

自分はネズミだけど、擬人化された「人間」であり

見てる君たちだって、犬くらい飼ったことあるだろう?というのが主張だろう

グーフィーがプルートに餌をやるシーンはおそらくないだろう

(全部見たわけじゃないけど)

擬人化されている(人間扱いされている)犬が

同種の(人間扱いされていない)犬に餌をやるシーンというのは

奴隷制や人種差別を連想させるから。

犬よりはるかに小さいネズミが

自分よりおおきなペットを世話するから洒落になるのだ

 

プルートも人気がでちゃったもんだから、

いまさらなかったことにするわけにもいかない

グーフィーと被るから

いまさらプルートを擬人化するわけにもかない

なんてことをディズニーランドの話題が出るたび思っている

 

長い間やってきたけど、「酒蔵」で公演するのは初めてだ。
音楽の響きとか、照明の効果とか
それから会場の空気とか
色々違うんだろうなあ。

 

 

人形を人形たらしめるもの。

それは「個性」とか「人格」とか

感情を感じさせるという特徴のためだろう

昔からある玩具を見ても、けん玉とか、コマなどには愛着は感じても、個性や人格は感じない。

ただし、木の枝でも顔を描いたり、着物を着せたりすれば、個性・人格・魂を感じる

遠野の「オシラサマ」などは、人形を通り越して「神様」になったりする。

人形劇をやっていて思う

たとえそれが、スチロールや木材で作った「物」だったにしろ

子供時代の、それもたった数分の出会いだとしても

命を感じた子が、ともだちを見るような目で見つめてくれたら

その瞬間、その人形は、

かりそめでも「生命」なんじゃないだろうか?

 

 

 

 

公演の終わった後、みんなが書いてくれた感想文をもらった

あんまり嬉しかったのでブログにアップします。

※ 名前の部分は消してあります

 

くずう原人祭り

少し雨に降られたけど。昨年に比べれば。

恐竜と遊ぶ子
この子達が大きくなった時に
どんな「思い出」になっているのだろう?
それにしても、とてもいい顔をしてるのに
その筋の指導で、写真を加工せにゃいかんのは残念