紙幣で使用された聖徳太子肖像画

 

 

☆皆様いつもお読みいただきありがとうございます。

 

梅雨が明けました。

 

暑い夏が始まりました。

 

そして今年はまだコロナ変異ウイルスが蔓延しているので、

 

熱中症予防やコロナ予防対策など、

 

色んな対策が必要で本当に大変ですね。

 

 

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聖徳太子冠位12階を制定

 

 

(前回からの続きです。)

 

 

来目皇子(くめのみこ)は新羅征討の為筑紫に駐屯して、

 

 

船舶を集め、食料を手配して準備を進めていましたが、

 

 

病に臥してしまい征討は成りませんでした。

 

 

そのまま筑紫で亡くなられました。

 

 

その事が推古天皇の耳に伝わり聖徳太子と蘇我馬子大臣を呼んで、

 

 

詔(みことのり)しました。

 

 

「大将軍の来目皇子が亡くなった。  大きな事を成し遂げようとして、

 

 

それが成らずに亡くなってしまうのはとても悲しい。」

 

 

葬儀を周芳国(山口県)の娑婆(さば・今の防府市)にて行ないました。

 

 

陵墓は河内国埴生山岡上(大阪府羽曳野市)で、塚穴古墳として、

 

 

比定されています。

 

 

推古天皇12年12月5日に聖徳太子は冠位12階を制定。

 

 

それまでは豪族がそれぞれの職務において権限を有し、

 

 

世襲ありというのが従来の冠位制度でした。

 

 

聖徳太子の発案した日本で最初の位階制度では、

 

 

世襲によるものとは別に個人の能力とか功績によって、

 

 

人材を登用する事の道を開いた。

 

 

冠は徳、仁、礼、信、義、智に、

 

 

それぞれ大と小と別にして、

 

 

6色の濃淡をつけて12階とした。

 

 

儒教の影響による上下関係もかなり感じられます。

 

 

儒教の五常は仁、礼、信、義、智が徳目ですが、

 

 

聖徳太子は上位に『徳』の冠位を設けた。

 

 

つまり聖徳太子は仏教を推し進めながら、

 

 

儒教の良いところも取り入れて、

 

 

政(まつりごと)を行なった訳ですね。

 

 

(次回へ続きます)

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 

                               竜虎