混濁老人のブログ

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ちょうど75年前の昨日は日本海軍の伝統で

ある大鑑巨砲主義に引導を渡した日であり

ます。遠くリンガ泊地から大和と武蔵を主

力とした水上艦隊は栗田司令の指揮下長駆

フィリピンのレイテ湾を目指し成功するか

どうかの難しい作戦を展開しました。その

経路においてシブヤン海で武蔵が米機動部

隊雷撃機の集中攻撃で撃沈され猪口艦長は

責任をとって艦と共に壮烈な戦死をします。

水上艦隊で航空機の援護なしの艦艇は巨砲

を有した巨艦でも無力でした。比島の島々

に展開していた頼みの日本陸海軍飛行部隊

は米機動部隊からの空襲で多くが無力化さ

れていました。このような状況下栗田艦隊

は決死の覚悟でレイテ湾に突入せよの豊田

連合艦隊司令長官の命令を受けてルソン島

とサマール島を遮る米軍監視の難関である

サンベルナルディーノ海峡を突破しサマー

ル島沖の海上に到達する天祐に恵まれます。

そこには米国弱小艦隊しかいない状況で、

それは囮艦隊としてルソン島エンガノ岬に

向かっていた空母4隻からなる小沢艦隊

(但し艦上機が不足)と遊撃目的でミンダ

ナオ島とレイテ島の間のスリガオ海峡に

向かった西村艦隊の犠牲によって可能と

なった奇跡と言える状況でありました。

航空戦力の不足と言う最悪の状況で大西

第一航空艦隊司令長官が編成したルソン

島マバラカット基地から飛び立った関行男

大尉(弱冠23歳)率いる世界初と言える神風

特攻隊敷島隊の犠牲があった事は言うまで

もありません。これら多くの将兵達がただ

レイテ湾突入作戦成功の為に尊い犠牲を重

ねているのに要の栗田艦隊はサマール島沖

海上の戦闘でレイテ湾を目指す事には再三

峻恂して結局は反転してもと来たサンベル

ナルディーノ海峡へと向かい比島海域から

遠く離れた海域へ退却するという不可解な

行動をとるのでした。大岡昇平の「レイテ

戦記」によれば栗田司令官やその幕僚達が

戦場で陥った恐怖が反転の最大の原因であ

ると言います。作戦遂行の為に多くの仲間

が犠牲となっていながら口実を設けて安全

な海域へ逃げてしまったのです。栗田艦隊

がもし実際にレイテ湾に突入出来たとして

海軍軍令部が期待した戦果を上げたかどうか

分かりませんがハルゼー主力機動部隊は小沢

艦隊の為にサマール沖から遠くにあり、比島

タクロバンにある米軍飛行場も使えない状況

にあった75年前の10月25日にマッカーサー

上陸部隊に一泡も二泡も吹かせる事になり

レイテ地上戦にも大きな影響を与え、遂に

大和も撃沈されると言う可能性は高かった

と思われます。捨てる身に浮かぶ瀬もあれ

と言いますが歴史に残る戦艦大和終焉の地

にレイテは相応しかった気がします。

しかしその機会を放棄した後、戦果もなく

武人として生き残った栗田長官達が戦後に

どのように生きたのか私は知りません。

多数の兵を死地に送りこんだ指揮官の多く

が生き残り日本再興に身を捧げた事とは思

いますが、日本には臆病者しか残っていな

かったとも言えます。そして我々も又その

子孫であります。