見るということは、昔は大変心に親しかったろうと私は推測する。見るというのはいつでも私たちの精神だ、絵を前にした君が語るのも許さぬ、云々するのを許さぬのはいつでも私たちの精神だ。考えてみよ、じっくり考えて浮かぶとき、すでに精神がそこにないのだ。絵を見てから後に、口から出る振動を精神だと思ってはならぬ。いつでも言葉が導いてくれるなぞと思ってはならぬ。見ることがいかに道を作るかを黙って待つのは今では大変な苦労だろう。私が言葉に欺かれたのは幼年のころからで、今でもその頭角は引くどころか水に浮かぶ氷のようにプカプカしている。そこに私は努力を見る、と思ったが、努力も空言に過ぎぬ。見るのは画家の行動だ、その内実は彼の全行動である。それだけを私は見たい。およそ言葉がはやりだしたのは、私が生まれたときには随分と信仰だった。