残念さん
元治元年京都で禁門の変が起った
薩摩・会津の軍勢によって敗れ去った長州の兵は西へと潰走したが幕軍によって捕らえらる者もいた


尼崎藩内でも一人の長州兵が捕らえられ、牢に入れられた。しかし取り調べの最中に「残念、残念」と言って牢内で自害して果ててしまったという。この人物の名は山本文之助と言い、この話を聞いて哀れに思った里人によって墓が建立され、“残念さん”と呼ばれている。今では「1つだけ願いを叶えてくれる」と言われ、近隣の信仰を集めているそうで
残念さんというのは一種の流行神のようなもので、幕末期に非業の死を遂げた者への同情が、反幕府の風潮と合体して爆発的な信仰となったものとされる

我が町にもお浪士さんと呼ばれ
残念さんの様に信仰を集めた人々がいた
その人達の名は武田耕雲斎と水戸烈士達で、





裕福な家庭では武田耕雲斎の絵が描かれた掛け軸が掛けられ拝まれた
加賀前田家などから莫大な寄付が贈られて、整備された彼らの墓は願い事が叶う場所として、多くの人々がお参りに訪れたものだが・・・月日は流れ我が町でお浪士さんの掛け軸が掛けられる事や願い事をしに彼らの墓に参る人は居なくなった・・・

つまり・・・今なら願い事の叶う願掛けが独り占め出来るという事




昨日は京都で高島屋の紙袋を持つ人を見かけた
花の女王バラの紙袋は
何か良いものを買ったんだなと思わせる

この高島屋の創業に敦賀出身の商人が関係している事はあまり知られていない
近江国高島郡出身の飯田儀兵衛が
京都烏丸薬師前にて営んでいた米穀商高島屋
その儀兵衛の娘お秀の婿となったのが
越前国敦賀郡晴明出身の中野新七で

京都の呉服店に丁稚奉公としてやってきたが
奉公先が廃業する等の不幸が続く中でも
朝から晩までひたむきに働く新七を
実直な近江商人の儀兵衛が惚れ込んで
婿入れさせた


しばらく義父の商いを手伝っていた
新七であったが米穀商を継ぐつもりはなく
ほどなく高島屋の近くの家を借りて
「正札.掛け値なし」を謳い文句に
古着商たかしまやを秀と共に始める

これが後の株式会社高島屋の前身であった