今日は発達特性の話から少し外れますが、最近考えていたことを書いてみたいと思います。
我が家には、この「平成令和の産業革命」とも言える時代に生まれ、
デジタルネイティブの日常を、日々まざまざと見せてくれる子ども達がいます。
彼らは、体調が多少悪くても、まず相談する相手は親でも医師でもありません。
AIです。
もちろん親としてはたしなめて通院させますが、この光景に強い違和感を覚えるのは、おそらく私たちの世代が最後なのだろう、、という予感もしています。
そしてその違和感は、
医師という職業そのものの「質」が変わりつつあることへの予感でもあります。
親世代で話をしていると、いまだに
「勉強ができるなら医学部へ」
「医師になれたら安心」
という価値観が、ほとんど色褪せないまま残っているのを感じます。
けれど最近、私はこうした会話を聞きながら、
いまだ子どもたちへの発言力や影響力が大きい親世代の価値観が、十分に更新されないままでいることは、少し危ういのではないか……そんなことを考えています。
というのも、入試という「入口」と、
卒業後に就くであろう職業の“性質”が変わってきたことでその先にある「出口」も変化して、
入口と出口のあいだに、少しずつズレが生じてきているように感じるからです。
子どもたちが、多少の体調不良であればAIに相談し、市販薬で本当に治してしまう。
そんな日常の風景は、近い将来の医療のあり方をはっきりと予感させます。
AIの精度はこれからも日々磨かれていき、
少なくとも「判断」という点において、大きく間違うことはもっと少なくなっていくのでしょう。
そして、医師という人間に求められる能力も、当然のことながら時代の変化とともに変わっていくのでしょう。
そんな時代において、親が考える入試という「入口」と、この「出口」にはどこまでのズレがあるのでしょうか。
塾や学校といった教育現場は、こうした変化をいち早くキャッチし、
すでに次の段階に向けた動きを始めているようにも感じます。
総合型選抜や、「学チカ」といった言葉が一般化してきたことからも、
その方向性はうかがえます。
ですので、ここではあくまで、
価値観が十分にアップデートされていないかもしれない教育熱心な親同士の会話を、
ひとりのただの素人が眺め、少し考えてみているだけ…。
そのくらいの、ゆるやかな気持ちで読み進めていただけたらと思います。
前述した「軽症では病院に行かない」という選択は、個人の合理であると同時に、
国の制度設計とも、一致し始めているのを感じます。
高齢化が進み、社会保険制度をこの先も維持していくためには、
「誰もが、どんな症状でも、気軽に医療機関を受診する」
という前提そのものを見直さざるを得なくなってきています。
そう考えると、
自宅で症状を整理し、
軽症であれば市販薬や薬局で対応する、
という流れは、国の制度設計とも噛み合い始めているようにも見えます。
医療費を抑え、
本当に医療が必要な人に資源を集中させる。
そのために、
「軽症は医療の外側で」
「中度以上から医療へ」
という線引きが、これからより明確になっていくのではないでしょうか。
そうなれば、この資格職は、数の多さではなく、役割の重さによって選ばれる、より少数精鋭のものになっていくと予測されます。
そして、その「精鋭」であることの証もまた、
これまでとは違う質のものへと、変化していくように感じます。
つまり、従来の「圧倒的な知識量や努力に耐えうる能力」の外にある、AIには代替できない何か。
私自身が不遜ながらも答えの一つとして
あえて言葉にするとしたならば…。
それは、人間の体温を伴って、
状況や背景を踏まえて、判断する力
相手の状態や理解に応じて、答えを渡すタイミングを見極める力
その判断の結果に、責任を引き受ける力
そのようなものかもしれないと感じるのです。
そして改めて、
親世代の価値観が十分にアップデートされないままでいることのリスクに、
話は戻ってきます。
子どもが、どんな世界を前提に育っていくのか。
その土台となる環境を整えるのは、
やはり親の役割でもあるからです。
だからこそ、
どの進路が正しいかを決めること以上に、
どんな前提で世界を見ているのか。
その価値観自体を、
改めて問い直す時期に来ているのかもしれません。