どうしても自分の中で処理できないものがあり、ここに書きなぐることにした。
とある議題・疑問若しくは言動に対して、はっきりと断定した否定をする「人」がいる。
しかしそれは如何なものか。
勿論、反対意見はどんなことでも有って然るべきであり、必要な物でもあると思う。
だが、否定するというのはどうだろうか。
自分の考えではあるが、「反対意見」と「否定」とは全くもって違うものではないかと思う。
とある意見に、「それはこの部分が〇〇だから△△だ」というのが「反対意見」。
そして、ただ単純に「それは違う」や「なんで××じゃないの」と、相手を完全に否定するだけ。
というのを現実のやり取りにおける相違点として理解している。
(まあ辞書様からすると、「それは違う」との答が返ってくるとは思うが。)
特に、「なんで××じゃないの」のような言葉を使う方に問いたい。
何故その言葉をかけた相手に「その人」と同じ思考を求めるのか。
十人居れば十通りの思考があって当然ではないのか。
相手が「その人」と寸分違わぬ状況で寸分違わぬ経験をすれば、同じ考え方や行動をし、同じ成長の仕方をするとでも思っているのだろうか。
更に言えば、「その人」の考えや言動が全人類の基準とでも思っているのだろうか。
「その人」の発言も、何かしらの経緯や、もしかしたらプライドがあるのだろう。だが、正しいか間違っているかに関係なく、結局それは自分勝手なものではないかと思う。
自分勝手なものではあるが、それも解答の中の一つということなのではないだろうか。
相手に自分と同じ考え方を求めるのであれば、ほんの少しでも基準を伝えることくらいはしてもいいと思う。「それくらい考えたらわかるだろ」は「その人」の思考で経験した物事の結果に至るものであり、自分ではない人に対して簡単に使っていい言葉ではないのではないか。(もしわかるのなら、「その人」の経験が薄っぺらいってこともありえるかも?)
自分自身が若輩者な為、断定した表現ができず、随分と弱々しい主張ではある。
しかし、これ自体は十年では済まない程前からほぼ変わらず思っている。追加した認識としても、「状況によってははっきり否定するような表現をするべき時もあるかもしれない」程度のものだ。
しかも、「ごく一部の上級の立場の方であれば」と限定している。
おそらく今後も大して変わることはないと思う。
今はまだこういった主張を口に出すことすらできない人間ではあるが、いつかこういう主張を誰かと議論し完全に作り上げ、自分の中の確かな信念として持ちたいと思う。