毎朝、教会等で祈る習慣があると、

10年近くも、寿命が延びるとの調査結果が得られたそうだ。

 

毎朝御ミサに通う習慣を続け、

ピアノを弾く習慣を維持し、適度な運動を取り入れ、

食生活に配慮すれば無敵だろう。

 

100歳越えも決して夢ではない。

 

 

 

 

カトリックにしろ、そのアンチとして産声を上げたプロテスタントにしろ、

西に向かったキリスト教は、すべからく肉の宗教である。

 

パウロの神学、バチカン、公会議のすべてはプロパガンダを目的とした、

イエスの教えとは似て非なるものである。

 

トマス、ナタナエルによって東へ向かったいわゆる「異端」とレッテルを張られた教えにこそ、イエスの真意が色濃く残存している。

今日の朝ミサの第一朗読は、パウロ書簡から「ガラテヤ書5.1-6」。

 

「あなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。

とパウロは言い放っているが、なんという独断であろうか。

 

イエスに帰依したかと見えて、彼の本質はバリバリのファリサイ原理主義者である。

教義がファリサイズムから、イエスの御言葉に置き換えられただけであり、

それがゆえ、カルトの先駆者、プロパガンダの達人なわけである。

 

割礼を受けようが、受けまいが、イエスは惜しみなく慈しみを与えて下さる方なのである。

ただ、パウロのような二元論者を激しく糾弾したということである。