共振の月26日・KIN42白い電気の風
昨日のブログの最後に「自分は嘘つきだ」と書きました。
その駅で降りないのに降りる風で席を立つなんて、たしかに嘘だけど。
それよりも、この件に関してはもう自分の中でなにも迷ってないのに
まだ考えてる風に書いてしまったことのほうが嘘つきだなと思って。
「どうぞ」と言って席を譲ろうが。
無言でさりげなくその場を立ち去ろうが。
どちらでもいいのです。
そこに優しさがあれば。
立ってるお年寄りは、健康のために座らない人かもしれない。
座ってる自分は、具合が悪くて吐きそうかもしれない。
「座っている自分と、前に立つお年寄り」
というひとつのシチュエーションの中にも、無限のパターンがあるわけです。
それをその行為だけで切り取って、なにが正しいか決めようとするから
歪みが生じてくるんじゃないのかなぁ。
どだい無理な話なのに。
「どんな行為をしたとしても、そこに優しさがあるか」
この基準ならどんなシチュエーション上でもあてはめられるのです。
これがオーラソーマでいうところの
「何をしているかよりどのようにしているか」です。
ホント、これが大事。これがすべて。
「何を」の方が表に出てくる部分だから目に付きやすいんだけど
どうぞ「どのように」にももっと意識を向けて
そこがちゃんとしてるかどうかを気にしてみましょう。
先日のキリスト論のセミナーで
「父と子と聖霊」の三位一体の話がありました。
父は創造主(神)。
子は神の顕現であるイエス・キリスト。
そして聖霊は、そこに意味(質)を与えるものだそうです。
つまり。
父は「海」。
子はそこに住む「魚」。
聖霊はその「魚の味」。
ということ。
もしくは。
父は創造主であり世界を作るもの。
子は人間であり父に作られたもの。
そこに聖霊が存在することによって、
ひとりひとりの人間に個性や役割が与えられる。
とか。
席を譲る話にしても、どのような行為をするのが正しいかよりも
そこに優しさがあるか・・・・が、大事だというならば
まさにそれは聖霊の役割の部分だと思います。
そして「聖霊」はオリーブグリーンのテーマ。
今ってやはりオリーブの時代なのね。
あ~ジェレミエルの話がしたくなってきた!
じゃあ次のブログのタイトルは「これからのジェレミエルの話をしよう」かな。