中学の頃はまっていた漫画にこんなエピソードがありました。


※私のルーツはほとんど漫画なのです~「私の血は(ワインならぬ)漫画でできている」


主人公の少年は小児マヒで足が不自由です。そしてそんな自分を恨めしく思っています。

彼が妄想の中で神様に怒りをぶつけるシーン。


少年「神様、どうか僕の足を治してください」

神様「いつか・・・な」

少年「いつかなんて嫌だ。今すぐ治してください!」

神様「どうして今すぐ治して欲しいのだ」

少年「だってパパは足の悪い僕のことを疎んでいる。大人になってからじゃなくて、今足が良くならないとパパは僕のことを捨ててしまうんだ」


さきほどのブログで「カミサマの愛なんて意味がない!」と書いてしまったのは、こういうことです。

カミサマの大きい大きい愛よりも、時に目の前の小さな愛の方が大きく見えるの。

カミサマの愛は大き過ぎて、時に見えなくなるの。



神聖な愛と小さな愛はマゼンタのテーマです。

マゼンタとコーラルはどちらもピンクレッドを多く含む近い色ですが、ピンクレッドにブルーを混ぜるとマゼンタになり、イエローを混ぜるとコーラルになります。


この違いは何なのでしょうか?今の私にはどちらかというとコーラルのテーマがあると感じています。


そこでコーラル。

ペールコーラルの87番を使っていて感じることがあります。


青空ボトル


カミサマの愛(「神聖さ」と言いましょう)はやはり自分の内側にあるのです。

だから私たちが自分を愛する(ピンク)ということは、ひいてはカミサマを愛するということなのです。


もし自分を愛することができればそこにはカミサマがいるのだから、自分の内側にいる永遠に愛を与えてくれる存在からの愛を受け取ることができるわけです。


そこに「報われなさ」があるはずもなく。



そうはいっても身近な人よりもカミサマばっかり愛せよということじゃありません、もちろん(笑)。

親兄弟や恋人や友達といった身近な人を愛しましょう。


ただそれが、自分の内側にある神聖さで愛しているかどうか?

相手の中にある神聖さを見ているかどうか?


そのように愛することができると依存ではなく自立・「相互依存」になるんだろうなぁ。

そのように愛せるのがコーラルであり、だから愛を与える人なんだろうなぁ。


「神聖さ」とは、今の私の理解では「永遠に失われることのない愛の質」です。



・・・なんか最近、この「神聖さ」がどんな感じなのかが分かってきました。


この「分かってきた」という意識(コンシャスネス)が、マゼンタではなくコーラルなのかな。

「自分を愛する(ピンク)ことで、内なる神聖さから愛することを学ぶ(知恵=ゴールド)」が、コーラル(ピンクとゴールドのシェイクカラー)の「愛の叡智」。



自分が内なる神聖さで何かを愛せているかどうかについてはまだまだだと思いますが、少なくともこの神聖さがわかってきたことだけでも大きな成長だと思います。


これがコーラルの「キリスト意識への目覚め」なんだとすればとても嬉しい。感謝です。