自己存在の月26日・KIN208白い惑星の鏡
最近、カミサマについて考えたりしています。
私が言っているカミサマは、特定の誰か(何か)のことじゃないんです。
この日々日常の中で、そこはかとなく・でも常に確かに在ると感じている「神聖さ」のこと、です。
それを言い表すうまい言葉がなくて、でもきっとカミサマと昔の人が言っていたそれがこの感覚なのかなと思うので、私も「カミサマ」と言わせていただいてます(ホントは違うかも知れませんけどね)。
ただこの神聖さは私にとっては決して敷居が高いものではないと感じているので、あえて片仮名表記で「カミサマ」とさせていただいてます(笑)。
なんか・・・こう・・・もっと素朴な感じなのです。
だから本当は私としては呼び方は何でも良くて、「カミサマ」じゃなくて「ジロウ」でも良いんです。ウチの犬。
だってカミサマという言葉は、人によっていろんな捉え方がありそうですものね。
誤解されることもありそうです。
時にカミサマを激しく拒絶する人もいますし。
そのくらいこの言葉には力があるのですね、良くも悪くも。
「カミサマ」を拒絶する人は、何を拒絶しているのかなと考えてみました。
・信じる人は優れているけど信じない人は劣っていると、人を見下すエラソーな感じ
・夢見がちで現実逃避している感じ
・「従わないと地獄へ落ちるぞ」的に脅しをかけてくる強制的で高圧的な態度
・曖昧で根拠がない感じ
・排他的で閉鎖的な様子
・・・思いつくのはこんなところでしょうか。
私は思うのです。
この「カミサマ」を何かの枠にくくって語ることはできないんじゃないかと。
それを無理にしようとすると争いになるんじゃないかと。
こういった枠に収まらないのがカミサマじゃないかな~と思います、今のところ。