昨日は、以前東京で住んでいた家の近くにある
善福寺に、母親の命日だったので、会いに行ってきました
清里に引越ししてからは、行くことも少なくなっていて
久し振りでした
お寺の門をくぐると、懐かしい思いがこみ上げてきて
納骨堂の扉を開けると、母が待っていてくれました
いつでもそこに行けば会える、そんな思いで
壁に手を当てて、目をつぶると
懐かしい母の姿が、目に浮かんできました
亡くなる一月程前、お誕生日に花束をプレゼントすると
ベッドに腰を掛けて、うれしそうに笑ってくれました
そのパジャマ姿が、鮮やかによみがえってきて
そこに母がいるようでした
いつも、いろいろ報告をするのですけれど
昨日は、何故か、全て判っていてくれる気がして
何も言わず、ただ母の面影を求めていました
母は、若いときの手術が元で、血清肝炎に罹り
その後慢性肝炎を患い、何をするのも億劫なようで
面倒くさいが、口癖のようでした
長い年月を経て、肝硬変に移行してからは
入退院を繰り返し、ほとんど寝ていることが多くなりました
1度、意識不明になった時には
綺麗なお花畑を通って歩いた、といっていました
本当に、お花畑はあるのだなぁと。。。
1月、寒い冬の日に、久しぶりに受けた検査で
肝臓癌に移行していることが判りました
主治医から、夏までの命との宣告を受けて
何かしてほしいと願いました
でも、自分の親でも何もしない、という主治医の言葉で
助かる見込みのない治療は、負担になるだけだと
何もしないことに決めました
それでもあきらめきれずに、何とかしたいと
丸山ワクチンを使ってもらうようにお願いして
日本医科大学病院に、私が頂に行くようになりました
母は病院が嫌いで、少し楽になるから入院する?と聞いても
病院は嫌だから、家に居たいと答えました
例え、満足なことは出来なくても、最期まで自宅に居てもらおう
私が全て引き受けようと。。。
それからは、温泉が大好きだった母を連れて
毎月1週間ほど、車椅子を積んで、温泉に行きました
磐梯熱海の清風亭に行ったとき
お部屋から出られないので、
大きな露天風呂の付いたお部屋をとって
そこだけで楽しめるようにしました
テーブルいっぱいの、美味しそうな数々のお料理が出ても
もう母にはそれを食べることは出来ず
お漬物と、ほんの少ししか口をつけることが出来ませんでした
馬鹿な私は、どうして食べないの、と思わず言ってしまい
食べたくても食べられないの、と言わせてしまいました
なんて馬鹿なことを口走ったのか、後悔してももう遅いのです
それでも、温泉は喜んでくれて
ぬるくしたお湯に、何回も入ってくれました
電気を消して、夜空を見上げると
天の川や、無数の星が輝いていました
この、母との誰にも邪魔されることのない時間は
私にとって、最高に幸せな時間でした
自宅では、寝たきりで
病院に行くのも、もう負担なだけなので
訪問看護をお願いしていました
一日おきに、看護士さんにいらして頂いて
丸山ワクチンの注射を、お願いしていました
それでも、1週間も出かける時とか
看護士さんがお休みの時とか
私がやらなくていけないので
やり方を教えていただきました
実際にやってみなさいと言われても
針を刺すのは怖くて、ためらわれました
看護士さんに、手を押されてやっと出来て
自信が付いたのか、次からは何とかできるようになりました
肝臓癌は、脳に毒が回るので
ボケ症状と同じで、判らなくなって、わがままになったり
攻撃的になったり、おかしなことを言ったりするようになります
日によって、機嫌の良い日と
わけが判らなくなって、変なことを言う日と
波がありました
病気だとはわかっていても
あまりわがままになると、つい怒ってしまって
可愛そうなことをしたと、後悔しています
馬鹿なことをして、いつも後から後悔する
本当に駄目な私です
8月、箱根宮の下、富士屋ホテルに行った時
丁度湖水祭があり、ホテルからのバスで、参加しました
船から花火を見て、帰りのバスの中で
母が、来年も来たいけど、来られるかな?
と、話しかけてきました
また、来ようね、というのが精一杯で
前を向いたまま、流れる涙を悟られまいと
堪えるのに、必死でした
永遠に保存される写真を、撮っていただいて
今でも、そのときの写真が、保存されているはずです
芦ノ湖畔の、箱根ホテルに行った時
結婚式が、お部屋の窓から見えました
母は、おめでとう、幸せにね、って
素敵な式を見られてうれしかったと、喜んでいました
そして、ソファーに座って、湖と富士山を
決して忘ないと言うように、ずっと見つめていました
和食レストランでは、ご飯にお酢を混ぜてほしいと言い出して
作って頂いた御すしご飯を、美味しいと食べていたのが、忘れられません
ここで、髪を洗ったのが最後になり
帰ってからは、ほとんど意識もなくなり
1度だけ、何故かカツどんが食べたいと言い出して
少しだけ食べてくれました
最期は、眠ったままかと思っていましたけれど
1度、朝、雨戸を開けると、目を覚まして
私の顔を、見てくれました
最期の時は、天井を見つめ、怯えた様子になり
ただ、手を握って、呼びかける事しかできませんでした
最後まで、癌であることは、母に言いませんでした
私だけの中で収めて、
母が生きていてくれる間は、決して泣かないで
いなくなってから泣けばいい、と決めていました
でも、あるとき母の部屋に行くと
”癌の告知と、家族の苦悩”というテレビ番組を見ていて
ドキッとしました
今思うと、何も言わなくても、母は察していたんだろうと思います
生きていたときは、わがままで意地悪をして
その大切さに気づかなくて
居なくなって、かけがいのない存在だったことに気づく
愚かな私です
何の見返りも求めず、何があっても私だけを愛してくれる
そんな存在は、母以外にいません
どれだけ大切で、かけがえのない存在か
もっともっと前に気づいていれば
もう1度、1日でも、1時間でも
ほんの一瞬でも
もう1度、会いたい
いつまでも、大好きな母を忘れないで
その時は、言えなかったことも。。。
心から、ありがとう、大好きです
個人的な気持ちを、ここまで読んで下さり
本当に、ありがとうございました