突然ですが、質問です。みなさまの信仰生活になくてはならないものはなんですか?
教会、交わり、祈り…もちろん大切です。
しかし、私は何といっても「聖書」だと思います。
聖書を日本語で読むこと、それは私たちにとって当たり前ように感じます。
しかし本当にそうなのでしょうか?
もし日本語の聖書がなかったら、私たちの信仰は今と同じくらい成長していたでしょうか?
聖書からの慰めと励まし、また指針を得ることができたでしょうか?
私たちが、神さまからのラブレターをこんなにも簡単に読めるようになったのは、多くの人の祈りと労苦によったのです。私が習ったこと、また調べたことの中から、分かち合いたいと思います。
14世紀、ジョン・ウイクリフという人が、ラテン語聖書をはじめて英語に翻訳しました。それは教会の一部の人しか読むことのできなかった聖書を、みんなが読めるようにするためでした。リンカーン大統領のことばとして有名な「人民の、人民による、人民のための…」は、実は、ウイクリフが、最初の英語訳聖書の巻頭に記したことばなのです。彼は、イギリスのオックスフォード大学の教授で、腐敗したカトリック教会の聖職者の多さに憂いていました。彼の専門である法律の、刑法に関する論筆の中で、腐敗した聖職者の財産を没収する権利が政府にあると主張し、カトリック教会を怒らせました。ウイクリフは、この頃から、化体説(聖餐のパンは主の肉そのものとなり、葡萄酒は主の血そのものになる)を否定し、万人祭司(信徒は直接神と接することができる)の考え方を説き、宗教改革の先駆者といわれています。彼に賛同する人たちのコミュニティーにつけられたあだ名はロラード(教会に対して「つぶやく者」)でした。
ウイクリフに影響を受け、聖書翻訳に命を捧げる改革者となったのが、ウイリアム・ティンデール(1494~1536)です。当時カトリック教会は、ロラード派の拡大を恐れて、英語の翻訳聖書をもつことを禁止します。しかし、ティンデールはそのような中でへブル語とギリシャ語から英語へ聖書を翻訳します。忠実に訳された彼の聖書は、今日でも「ティンデール訳聖書」として使われています。
そして、16世紀。マルチン・ルターが宗教改革を行いました。彼は今までのカトリック教会の聖書に基づかない神学を否定し、「聖書のみ」「信仰のみ」を主張しました。また、ルターは教会の権威よりも聖書を重要視し、ワルトブルク城内で保護されている間に翻訳に従事し、1522年9月に新約聖書「九月聖書」を発行し、旧約と続編を1534年に出版しました。ルターの翻訳によって、ドイツ民衆も聖書を読むことができるようになりました。
世界には今約6900の言語が存在します。その中で新旧、全巻の翻訳を完了している言語がたった438、新約聖書があるのが1168、分冊が発行されているのが848、翻訳プロジェクトが進んでいるのが1998、そして 全く聖書翻訳の働きがスタートしていない言語が2393あります。
ウイクリフ聖書翻訳協会は、ジョン・ウイクリフの功績をたたえ、その名の下に、すべての民族に母国語の聖書を届ける働きをしています。設立者であるウイリアム・キャメロン・タウンゼントは、1917年スペイン語の聖書を販売するためにグァテマラに渡ります。しかし、現地の人はスペイン語を理解できませんでした。「あんたの言う神は、スペイン語しか話せないのか」という言葉に衝撃を受け、その地に住み、言語収集を開始します。また、他の少数民族で働く人を訓練しようと考えたタウンゼントは、1934年の夏、夏期言語学講座「キャンプ・ウィクリフ」を開催しました。はじめは参加者2名だった夏期語学講座から現在のウイクリフ聖書翻訳協会が生まれたのです。1999年、ウイクリフ聖書翻訳協会は国際会議で、“Vision2025”を採択しました。「2025年までに聖書翻訳を必要としているすべての言語において、聖書翻訳プロジェクトが始動している」というものです。
私は高校1年生の時はじめてこの団体の存在を知りました。体験ツアーや講座にも参加し、将来この分野に献身できたらなと願っています。