ちょっと変わった日常生活

ちょっと変わった日常生活

こんな20歳の日本人の女子大生いるんだなって知ってもらえたらうれしいです。私の日々の生活から難しい話までいろんなこと書いていきます。

ふしぎちゃんのふしぎでたのしい日常生活をお伝えします。
聖書の神様のこと
大学の寮生活、学園せいかつのこと
マニアックなパソコン、手話、フィリピンのはなしまで…
こんな生きたかもあるんだって参考にしもらえたらうれしいです。

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突然ですが、質問です。みなさまの信仰生活になくてはならないものはなんですか?

教会、交わり、祈り…もちろん大切です。

しかし、私は何といっても「聖書」だと思います。

聖書を日本語で読むこと、それは私たちにとって当たり前ように感じます。

しかし本当にそうなのでしょうか?

もし日本語の聖書がなかったら、私たちの信仰は今と同じくらい成長していたでしょうか?

聖書からの慰めと励まし、また指針を得ることができたでしょうか?

私たちが、神さまからのラブレターをこんなにも簡単に読めるようになったのは、多くの人の祈りと労苦によったのです。私が習ったこと、また調べたことの中から、分かち合いたいと思います。

   14世紀、ジョン・ウイクリフという人が、ラテン語聖書をはじめて英語に翻訳しました。それは教会の一部の人しか読むことのできなかった聖書を、みんなが読めるようにするためでした。リンカーン大統領のことばとして有名な「人民の、人民による、人民のための…」は、実は、ウイクリフが、最初の英語訳聖書の巻頭に記したことばなのです。彼は、イギリスのオックスフォード大学の教授で、腐敗したカトリック教会の聖職者の多さに憂いていました。彼の専門である法律の、刑法に関する論筆の中で、腐敗した聖職者の財産を没収する権利が政府にあると主張し、カトリック教会を怒らせました。ウイクリフは、この頃から、化体説(聖餐のパンは主の肉そのものとなり、葡萄酒は主の血そのものになる)を否定し、万人祭司(信徒は直接神と接することができる)の考え方を説き、宗教改革の先駆者といわれています。彼に賛同する人たちのコミュニティーにつけられたあだ名はロラード(教会に対して「つぶやく者」)でした。

   ウイクリフに影響を受け、聖書翻訳に命を捧げる改革者となったのが、ウイリアム・ティンデール(1494~1536)です。当時カトリック教会は、ロラード派の拡大を恐れて、英語の翻訳聖書をもつことを禁止します。しかし、ティンデールはそのような中でへブル語とギリシャ語から英語へ聖書を翻訳します。忠実に訳された彼の聖書は、今日でも「ティンデール訳聖書」として使われています。

   そして、16世紀。マルチン・ルターが宗教改革を行いました。彼は今までのカトリック教会の聖書に基づかない神学を否定し、「聖書のみ」「信仰のみ」を主張しました。また、ルターは教会の権威よりも聖書を重要視し、ワルトブルク城内で保護されている間に翻訳に従事し、1522年9月に新約聖書「九月聖書」を発行し、旧約と続編を1534年に出版しました。ルターの翻訳によって、ドイツ民衆も聖書を読むことができるようになりました。
世界には今約6900の言語が存在します。その中で新旧、全巻の翻訳を完了している言語がたった438、新約聖書があるのが1168、分冊が発行されているのが848、翻訳プロジェクトが進んでいるのが1998、そして 全く聖書翻訳の働きがスタートしていない言語が2393あります。  

   ウイクリフ聖書翻訳協会は、ジョン・ウイクリフの功績をたたえ、その名の下に、すべての民族に母国語の聖書を届ける働きをしています。設立者であるウイリアム・キャメロン・タウンゼントは、1917年スペイン語の聖書を販売するためにグァテマラに渡ります。しかし、現地の人はスペイン語を理解できませんでした。「あんたの言う神は、スペイン語しか話せないのか」という言葉に衝撃を受け、その地に住み、言語収集を開始します。また、他の少数民族で働く人を訓練しようと考えたタウンゼントは、1934年の夏、夏期言語学講座「キャンプ・ウィクリフ」を開催しました。はじめは参加者2名だった夏期語学講座から現在のウイクリフ聖書翻訳協会が生まれたのです。1999年、ウイクリフ聖書翻訳協会は国際会議で、“Vision2025”を採択しました。「2025年までに聖書翻訳を必要としているすべての言語において、聖書翻訳プロジェクトが始動している」というものです。

私は高校1年生の時はじめてこの団体の存在を知りました。体験ツアーや講座にも参加し、将来この分野に献身できたらなと願っています。
≪カトリック と プロテスタント≫

キリスト教が大きく分けて2つあることご存じですか?

今日は、カトリックとプロテスタントについて簡単に書きたいと思います。

歴史:
  まずは歴史。もともとは一つだったキリスト教が、16世紀ルターの宗教改革で分裂した。それは当時、教会が伝統や権威を大切にして、聖書と違うことをしていたから。
教会は、贖宥状を買えば煉獄にいるあなたの大切な人が、早く天国にいけますよって宣伝した。カトリックの人たちは、今も「煉獄」を信じている。イエス様を信じた人は、すぐに天国に行けるわけじゃなくて、洗礼受けてから犯した罪を償うために、煉獄にいかなきゃいけない。その苦しい期間を少しでも短くするために、みんな贖宥状を買った。これで教会は大儲け。でもルターは、そんなの聖書のどこにも書いてない、ただイエス様を信じる信仰によって救われるって、「信仰のみ」「聖書のみ」を主張した。ルターが他にも指摘したのは、聖人と修道院。聖人は主に、殉教者とか功績を積んだ人が選ばれて、神と人との仲介者になる。信徒は聖人に祈って、とりなしてもらったり、守ってもらおうとする。修道院では、世俗から離れて、祈り、奉仕し、戒律の厳しい生活をした。それが神に近づける生活だと信じていたから。本当に行いによる救いが強調されていた。カトリックでは、今も両方残ってる。日本人の聖人もいるんだよ!!


聖礼典:(イエス様が恩恵をうけるために定めた手段や方法のこと)
私の行っているプロテスタントの教会には、聖餐式と洗礼式っていうのがある。イエス様がやりなさいって言われたものだから、特別に大切にしている。けど、カトリック教会にはこの2つプラス、婚姻(こんいん):結婚、告解(こっかい):罪の悔い改め、叙階(じょかい):按手礼、塗湯(とゆ):死の間際や、病人に油を塗る、堅信(けんしん):信仰告白の全部で7つを聖礼典に数えている。特に違うのは、聖餐式。カトリックでは、パンとブドウ酒をキリストの体と血、そのものだって信じている。これを化体(けたい)っていうんだ。
カトリックで罪をゆるしてもらうには、信徒は自分の犯した罪を司祭に話さないといけなかった。そして祭司のいう償いをしなきゃいけなかった。それは、カトリックでは聖職者を通してじゃなきゃ、神様と接することができないとされていたから。でもルターは、自ら聖書をよみ、祈ることができるっていう万人祭司の考え方を主張したんだ。

カトリックとプロテスタントの違いは、まだまだこれだけじゃない。興味のある人は調べてみてください
。普段、当たり前に信じたり、感じたりすることでも、昔からあたりまえだったわけじゃないんだよね。

今日は、違いばかりをみてきたけど、カトリックもプロテスタントも同じイエス様を信じることには変わりない。だから、偏見をもつんじゃなくて、お互いの違いを受け入れあえたらいいね。
去年の冬、私はなぜか読書にはまって、遠藤周作の「沈黙」を読んだんだ。

読んだことある人いますか?
ズーンって暗くなる本だった。
この本は、江戸時代にポルトガルか ら来たカトリックの宣教師ロドリゴが迫害の中でどう生きたかっていう小説。次々とクリスチャンが殺されていく、自分も捕まって、でもどうすることもできない。

そんな中で神様がなぜ沈黙おられるのかがわからなくて悩む。
「どうして神様?なんで黙っておられるのですか?」
そのつらさ、叫びが伝わってきた。

この本はあくまでも小説だけど、実際、豊臣秀吉や徳川家康は、キリスト教を禁止して、クリスチャンを迫害した。キリスト教を棄てれば死ななくてすんだのに、そうはしないで死んでいったたくさんの日本人がいたんだよ。すごいなって思ったよ。

私たちは、命を捨てるほどに誰かのために生きれるかな?

教会の中学生に、こんな質問をもらったので、一緒に考えてみたいと思います。

「キリスト教の歴史ってどんな勉強ですか?なんで勉強するのですか?面白いですか?」

「以心伝心」ゲームって知っていますか?

隣の人と手をつないで、目をつぶって、ギュって握られたら、反対の手をギュって握る。最初の人からどんどん順番に手を握っていって最後までの時間を計る。このゲームは誰かひとりでもボーっとしていたり、間違えて握ったりすると大変なことになる。

私は、キリスト教の歴史ってこれに似てるなって思った。イエス様が十字架で死んで、3日目に復活された後、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」っておっしゃった。だからイエス様の弟子たちは、いろんなところにいってイエス様のことを伝えた。そしてこの日本にもイエス様の福音(良い知らせ)が届いた。誰かひとりでもあきらめていたらここまで来なかったかもしれない。

今私たちがキリスト教の歴史を学ぶ理由は、
①歴史の中で神様がどんな風に導いてくれたのかを知って、ますます神様を信頼するため。
②先輩たちが経験したいろんな成功や失敗から学ぶため。
③伝えられた福音を、次の世代、またまだイエス様のことを知らない人に伝えるため。

神様は歴史に介入してる!黙ってなん かおられない。

私はすごく面白いし学ぶべきものだと思うな。