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今回は藤を訪ね、話を伺いました。
とても長い時代、人間と共に生きてきた植物のため、いくつかに分けて書いてみました。


「あなた達の人間との関わり合いを教えてください」と問いかけたところ、

「私たち藤は、縄文時代から日本列島の人々と共に生きています。
同種族で古い年月の情報を共有しているため、長くなりますが、知りたいですか?」

と答えてくれたので、

「そんなに昔からお世話になっていたとは驚きです。ぜひお願いします」

と伝えると、藤は薫風に淡い紫の花房を揺らしながら、語り始めました。

―古代の藤―

「それでは、歴史書が作られる前、縄文土器を人々が作っていた頃の私たちについてまず伝えましょう。

私たちはやせた土地でも成長できるので、人間にたいそう身近な植物でした。
若芽や花、種子は食べることができ、蔓は、綱や籠に編まれたり、繊維を布にできます。



竪穴式住居の柱と梁を結び付けていたのは藤の蔓でしたし、
土器を乾かす際に蔓の繊維を織った布を敷いたため、数千年経った今でも、遺跡からいづる土器にその痕が残っています。
節の形でわかるのです。

いにしえの諏訪王朝では、藤蔓の根を使って綱を作っていました。

諏訪大社の「御柱祭」では、古代には藤蔓が使われておりました。
今も長野の原村・泉野地区はこの伝統を守り、藤蔓を大木を曳く際の綱にしています。

古代から、諏訪の地では私たち藤は、とても神聖視されていました。

「諏方大明神画詞」には、出雲から来た建御名方(タケミナカタ)神と、諏訪の土地神である洩矢(モリヤ)神が
諏訪をどちらが治めるか決める争いの場面があります。
そこでは、建御名方神が藤の枝をとり、洩矢神方が鉄輪を持って争い、藤の枝が勝利したという記述があります。

植物でありながら、古代の技術で作られた鉄に勝つほどの強さを私たちは持っていたのです。

現在、伊勢神宮の外宮では豊受(トヨウケ)大神さま(『古事記』では豊宇気毘売(トヨウケビメ))が主祭神でいらっしゃいますね。

この女神さまは五穀農耕の祖神で食物・穀物をつかさどってらっしゃいますが、
衣食住守護・産業繁栄・水の徳をつかさどり、生命守護神でもあらせられます。

実は、その豊受大神様は、元は天橋立近辺を中心としていた古代の丹後王朝により祀られていましたが、
雄略天皇の御代に天照大神の食事を司るため、伊勢にお遷りなさったのです。

豊受大神は丹後では、天女の羽衣伝説の天女とも同一視される気品高く美しい神でございます。

その美はまさに花のかんばせとよべるもので、京都丹後の籠(コノ)神社には
『豊受大神のお顔は藤の花で、そのみたまは天の眞名井の水」という秘伝が伝わっています。

古代人のロマンの中で、私たち藤の花は気高く美しい女性の象徴であったのです。

現在、籠神社の奥宮になっている眞名井神社は、天からの聖なる水が湧く泉を祀ったところがあるため、
飛鳥時代の初め頃まで吉佐(ヨサ)宮とよばれていました。
天のヨサヅラ(古語で瓢箪)によって、真名井の御神水をお供えするための場だったためです。

その後、吉左社は「籠(コノ)宮」と名を改め、奈良時代に現在の地へ遷宮ました。
そして、その地で紀元前5世紀に「藤祭」というお祭りが始まりました。

有名な京都・賀茂社の「葵祭」では「葵の葉」を冠に付けるのに対し、籠神社では、冠に「藤の花」を挿す習わしになっています。

賀茂の葵祭は凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため行われた「鴨の神」を奉り、五穀豊穣を祈る祭礼が始まりです。

籠神社とは祀る神の名は違っていても、五穀豊穣を祈る点では同じです。
葵も藤も穀物の生命力に影響を持つ、聖なる力を宿していると考えられていたためです。


また、私たちの蔓の繊維を使い古代の人々は布を織って愛用していました。

江戸時代以降、綿の普及により藤布は衰退してしまったのですが、
今も私たちと親しんできた丹後半島では、伝統産業として藤布は残っており、国の重要有形民俗文化財指定を受けています。



―『万葉集』の時代と藤―

『万葉集』でも藤は何度も題材にされております。
美として、田植えの時期を告げる目安として、藤を織った布として取り上げられています。

美しいものとしては、

藤波の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君 (大伴四綱)

(訳)波のような藤の花が盛りになりました。奈良の都を思いだしてしまいますでしょうか君は。

田植えの目安としては、

藤波の咲きゆく見れば ほととぎす 鳴くべき時に近づきにけり (田辺福麻呂)

(訳)藤の花が次々と咲いてゆくのを見ると、ほととぎすが田植えの時期を告げに鳴くべき時に近づいてきたのだと感じます。

衣としては、

大君の 塩焼く海人の 藤衣 なれはすれども いやめづらしも
(訳)帝に献上する塩を焼く海女の藤布の衣のように、慣れてしまっている恋人ですが、ますます可愛く思えます。

また、藤という言葉は出てこなくても、藤の繊維を織って作った太布(タフ)が白いことを表していたことから

藤で作られていた「衣」という言葉に「白妙」という言葉を使った例としては、

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山 (持統天皇)
(訳)春が過ぎて夏がやって来たようです。真っ白な着物が干してありますね。天の香具山に。

という有名な歌があります。藤の繊維を織るのは大変ですが、丈夫で水にも強いため、
藤の繊維で織られた布は、70年ほど前まで実用品として使われていたことがわかっています。

このように、神代の昔から、万葉の時代まで藤は日本の人々の生活の場面に
さまざまな用法で使われておりました。」

この古代からのかかわりから考えると、藤は現代からももっと活用できそうですね。

感心しつつ、次に藤原氏や源氏物語との関わりを伺ってみました。