今日も朝から雨が降っている。梅雨だから当たり前と言えば当たり前だ。窓を少しだけ開けて部屋に風を通す。雨に冷やされた空気が心地良い。少し肌寒いくらいの温度。雨は決して鬱陶しいだけのものではない。久しぶりに温かいコーヒーを淹れ、ソファに深く腰掛ける。
夏が近づいてくると今年は海へ行こうかどうかと考える。私は海の無い町で育ったから、そういう場所に憧れみたいなものがある。海の風景を思い描く時、以前は南の島のビーチや人の少ない海水浴場が真っ先に浮かんでいたのだが、最近は少し違う。

海沿いの街。白い壁と、石畳の通り。太陽は高く、木々が潮風に揺れている。一匹の猫が狭い路地から現れ、悠然と目の前を通り過ぎていく。
例えばそんな風景の中に自分が居て、手付かずの一日がそこにあったとしたら。どこを切り取っても絵になりそうな街。地図もカメラも持たずに、ましてやケータイなんて。気の向くまま、目的もなく街を歩く。時々、海を眺めながら。
途切れ途切れのイメージが浮かんではコーヒーの湯気と共に消えていく。砂糖を入れ過ぎたなと思いながらふと窓の外に視線を移す。灰色の重たい雲が空に広がり、太陽の欠片さえ見えない。それでもこれは夜ではないのだから、太陽は確かにあの雲の上にある。
守りたいもの、捨てられないものがなかったら、今すぐにでもこの街を抜け出すのに。何にも縛られない生き方をしたいのなら、それが自由であるという事なら、孤独を受け入れなければならない。誰も傷つけたくないと思うなら。
逆に、私が何も持たずに生まれていたら、きっと色んなものを欲しがっただろう。家族、友人、恋人、自分の傍にいてくれる誰か。自分は孤独に耐えられないだろうとわかってはいるのに、時々、そういうものから逃げ出したくなるのは ―――――。
あまり楽しくない方向へ流れていこうとした意識を私は頭の隅に追いやった。別にそんな事を考えたかったわけではない。仕事ばかりで、忙しさに追われていた頃はほとんど何も考えられなかった。それはそれで、もしかしたら幸福だったのかもしれない。
小人閑居して不善をなす、とはよく言ったものだ。別に悪い事をした覚えはないが、ろくな事を考えない。私はソファから立ち上がって飲みかけのコーヒーをシンクに流した。このコーヒーは甘すぎる。新しいのを淹れなおそう。
その気になったら海へ行こう。ならなかったら行かなくていい。今までだってずっとそうだったんだから。雨は少し弱まってきたが、清々しさとは程遠い空だ。それでも嫌いではない。何と言うか、たぶんこういう事の繰り返しなのだろう。人生というやつは。
電気ケトルがカチッという音を立てお湯が沸いた。ドリップはゆっくり慎重に。砂糖は入れ過ぎないように。とりあえず今はコーヒーを淹れる事だけに集中しよう。遠い国の事は忘れて。
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