私は過去に恋をしている。

 遠く、雷鳴が聞こえた。雨は朝から降り続き、ベランダのカーネーションを濡らしている。植物を育てるのは苦手なのに引き受けてしまった鉢植えの花。彼女がくれたものが本当の善意だとわかっていたから、無下に断る事はできなかった。

 付けたまま眠ってしまったピアスを外す。16歳の時に初めて買ってもらった小さなサファイア。ガラスの小皿に落とすとコツンと心地よい音がした。昨日はシャワーも浴びずに眠ってしまった。私はそんなに疲れていたのだろうか。

 目を覚ました後もまだ夢の中にいるようだった。朝なのに薄暗い部屋が音を無くしている。窓ガラスに隔てられた雨音は耳を澄ましてようやく聞こえてくる程度だった。梅雨の雨にはまだ少し早い。昨日は夏のような日差しだった。

 予定のない休日は静かに始まり、サラサラと砂が流れるように過ぎていった。何もしない贅沢と言えば聞こえはいいが、私の中にそれほど前向きな気持ちはなかった。今の私には、ただ穏やかに暮らしたいという思いしかない。

 これから自分に、人生を変えるような出来事が起こるとは思っていない。何かを諦めたというよりは、自然と理解してそれを受け入れたという方が近い。何かを得ようとして自分から動き出さなくなったのはいつからだっただろう。

 あの人の事を思い出さなくなってから。たぶんそうだと思う。恋人ではなかったあの人。友達と呼ぶには近すぎた人。共に過ごした頃、私はこれといった不安もなくて、無邪気にはしゃぐ事が出来て、前に進む事だけを考えていた。

 幸福な思い出は心を慰め、ため息を吐かせる。片思いの誰かを想う時のように。もうずっと長い間、私は過去に恋をしている。もう二度と永遠に手に入る事はないと知りながら。 

 夕暮れが近づき、私は雨が止んでいる事に気がついた。雲の間から黄色の光が射し、蒼く染まった部屋に届く。あぁ、綺麗だなと私は思う。とても素直に。それはもう、目覚めた時に感じた夢のようなものではなく、現実の確かな手触りがあった。

 窓を開け、部屋の中に吹き込んできた風はまだ微かに湿り気を含んでいた。水滴を纏ったカーネーションが私の視界に鮮やかな色を添える。それは悪くない世界だった。何もなかった一日の終わりとしては、決して悪くなかったのだ。


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