米軍資料に見る奄美大島空襲(48) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

ヤフーブログから移行しました。随時更新していいきますので、よろしくお願いします。

 二八日に最初に来襲が確認出来るのは、午前三時七分から五七分で、第五四八戦闘機中隊のP61が薩川湾の上で、一〇〇〇ポンド爆弾二発を投下したが、結果は確認出来なかった。「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)

 二番目に来襲が確認出来るのは、午前一〇時四〇分から午前一一時五分で、三機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)

これに該当する可能性があるのが、午前一一時四五分に来襲した、第三一一海兵戦闘飛行隊のF4U三機だった。奄美の南西端の無線局を銃撃したが、損害は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)曽津高崎特設見張所を攻撃したのだろう。

 三番目に来襲が確認出来るのは、沖縄読谷飛行場を午前一〇時三〇分に発進した、第二二四海兵戦闘飛行隊のF4U四機だった。任務は加計呂間島の妨害戦闘空中哨戒だった。徳之島と江仁屋離島に午後一時四五分に到達し、江仁屋離島の対空砲陣地を銃撃したが、損害は確認出来なかった。

 四番目に来襲が確認出来るのは、午後二時四五分から午後三時に来襲した、第三三三戦闘機中隊のP47一四機、第一九戦闘機中隊のP47一四機だった。

 前者は古仁屋港の船舶を五〇〇ポンド爆弾とロケット弾で攻撃し、SC一隻が爆弾の命中により破壊され、ボートが爆弾の命中によりおそらく破壊された。漁船一隻が古仁屋で損害を受けた。後者は久慈湾のSD二隻をロケット弾で攻撃し、漁船に直撃弾を得た。銃撃の命中はそのSDと正体不明のボートと同様に得た。「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)また後者は瀬相村の入り江にSD一二隻と座礁したSCを目撃し、五〇〇ポンド爆弾一四発を投下したが命中しなかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3677」)

 この日は機帆船一隻が炎上した。(『大防日誌 S二〇・六』 一七頁)これは四番目の来襲によるものだろう。また午後三時に瀬戸内町薩川集落は機銃掃射を受けた。(註1)これも四番目の来襲によるものだろう。

 五番目に来襲が確認出来るのは、午後八時四五分で、三機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)

これに該当するのが、伊江島飛行場を午後八時に発進した、第五三三海兵夜戦飛行隊のF6F(夜戦型)二機(五〇〇ポンド爆弾二発とロケット弾六発を装備)だった。

 奄美大島に午後八時四八分に到達した。古仁屋水上機基地を爆弾二発とロケット弾四発で攻撃し、全て命中したが損害はなかった。古仁屋町をロケット弾二発で攻撃し、全て命中したが損害はなかった。加計呂間島の貯蔵倉庫を爆弾二発とロケット弾四発で攻撃し、全て命中したが損害はなかった。

 この日は防備隊本隊の庁舎が半壊した。(『大防日誌 S二〇・六』 一七頁)これまでの空襲で地上の建物は破壊された印象を受けるが、防備隊本隊の庁舎はまだ残っていたようだ。また四番目の来襲で、P47一機が奄美の北端から一五マイルに墜落し、搭乗員は行方不明となった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)

 二九日に最初に来襲が確認出来るのは、午前六時一五分から七時一五分で、二八機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)

これに該当するのが、沖縄嘉手納飛行場を午前五時に発進した、第二二二海兵戦闘飛行隊のF4U一二機(五〇〇ポンド焼夷弾一発を装備)、沖縄嘉手納飛行場を午前五時一〇分に発進した、第二一二海兵戦闘飛行隊のF4U一三機(ロケット弾八発を装備)だった。第二二三海兵戦闘飛行隊のF4U八機が同行した。

 午前六時四五分から午前七時に目標に到達した。前者は俵小島の銃陣地を爆弾八発で攻撃し、四発が命中した。瀬相の町を爆弾一〇発で攻撃し、八発が命中した。乙崎の対空銃陣地を爆弾四発で攻撃し、二発が命中した。

 後者は瀬相をロケット弾一二発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。加計呂間島の北中央海岸のBOの町をロケット弾一七発で攻撃し、大火災によりひどい損害を与えた。瀬相とBOの南の山頂の対空砲陣地をロケット弾一三発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。BOの北東四マイルの対空砲陣地をロケット弾七発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。乙崎の対空砲陣地をロケット弾一〇発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。押角をロケット弾七発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。

 BO(報告書の字が少しにじんでいるため、SE等の可能性もある)は、どこの集落のことか不明である。瀬相や押角からそう遠くない集落だと思われる。瀬相とBOの南の山頂の対空砲陣地は瀬相山砲台だろう。

 押角集落は昭和二〇年夏に、フカラ地区の田と浜に三から四発の爆弾が投下された。この他にも機銃掃射を受けたが、人命や家屋に被害はなかった。(註2)米軍の発射したロケット弾は全て外れたのだろう。

 二番目に来襲が確認出来るのは、沖縄嘉手納飛行場を午前八時に発進した、第三二二海兵戦闘飛行隊のF4U四機だった。奄美群島に午前一一時一五分から四五分に到達し、名瀬港のボート四隻を銃撃し、多数命中して破壊した。加計呂間島の俵小島の入り江の小型ボート二から三隻を銃撃し、多数命中して僅かな損害を与えた。

 大島海峡では防備隊の機帆船一隻が沈没した。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)小型ボートはこれに該当する可能性がある。名瀬では「午前十一時機銃」(註3)とあり、二番目の来襲が記録されている。

 三番目に来襲が確認出来るのは、午後二時五九分から午後四時二分で、一六機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)

これに該当する来襲の一部が、沖縄嘉手納飛行場を午後一二時四五分に発進した、第三一二海兵戦闘飛行隊のF4U四機だった。奄美大島に午後四時に到達し、奄美大島南西端の灯台と周囲の建物を銃撃し、全て命中して甚大な損害を与えた。南西端の灯台とは、曽津高崎の灯台のことだろう。

 この日防備隊は撃墜二機・撃破一機の戦果を報じた。(『大防日誌 S二〇・六』 一八頁)第二二二海兵戦闘飛行隊のF4U一機が二〇ミリ対空砲に撃たれて撃墜された。搭乗員は火災で顔に僅かな負傷を負った。搭乗員は墜落前に機体から脱出したのだろう。

 

(註1)『薩川小学校創立七十周年記念誌』(同校記念事業実行委員会 一九七八) 一一頁

(註2)『わが町の戦中戦後を語る 思い出の体の体験記録集』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 四九頁

(註3)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七)所収) 一〇四頁