米軍資料に見る奄美大島空襲(46) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 二二日に来襲が確認出来るのは、午後九時二〇分から四七分で、一機が阿鉄湾・久慈湾・三浦・与路島を銃爆撃した。(『大防戦詳 S二〇・六』 一一〇七頁)

 これに該当するのが、沖縄嘉手納飛行場を午後九時に発進した、第五四三海兵夜戦飛行隊のF6F(夜戦型)二機(爆弾二発とロケット弾六発を装備)だった。

 加計呂間島には午後九時五〇分から午後一〇時五〇分に到達した。MO崎を爆弾四発とロケット弾一二発で攻撃し、全て命中して火災が二つ起きた。このMO崎がどこを指すのかは不明である。

 二三日に最初に来襲が確認出来るのは、午前三時から四五分で、二機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一五頁)

これに該当するのが、沖縄嘉手納飛行場を午前二時に発進した、第五四三海兵夜戦飛行隊のF6F(夜戦型)二機(爆弾二発とロケット弾六発を装備)だった。奄美大島に午前三時から五〇分に到達した。南奄美を爆弾四発とロケット弾一二発で攻撃し、三発と一二発が命中したが損害は確認出来なかった。

 二番目に来襲が確認出来るのは、午後九時五〇分で、一機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一六頁)

 これに該当するのが、午後九時五〇分から午後一一時で、第五四八戦闘機中隊のP61一機が、古仁屋水上機基地を一〇〇〇ポンド爆弾二発で攻撃した。爆弾は両方とも目標に命中したが、結果は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)

 二四日に来襲が確認出来るのは、午前二時四二分に、第五四八戦闘機中隊のP61一機が、九州上空の妨害任務から変更し、笠利湾の赤尾木の無線柱五本を銃撃した。結果は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)

 二五日に来襲が確認出来るのは、午後二時二四分から三〇分で、第二一戦闘機中隊のP47四機が、名瀬港の護衛艦を銃撃し、煙の柱を目撃した。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3727」)

 名瀬では「午後三時、極洋、丹後丸投弾」(註1)となり、この来襲が記録されている。

 二六日に最初に確認出来るのは、沖縄嘉手納飛行場を午後二時三〇分に発進した、第二二二海兵戦闘飛行隊のF4U八機だった。

奄美大島に午後三時五五分に到達し、村四箇所(梵論瀬崎、秋名、YAMB、安木屋場、KOSUIKI)を銃撃し、煙が目撃された。小型ボート三隻を銃撃した。

 梵論瀬崎安木屋場・秋名は龍郷町だが、YAMBとKOSUIKIはどこか不明である。場所が判明している地名の近くではないだろうか。ちなみに龍郷町安木屋場集落では、戦争中に一軒が焼失している。(註2)

 二番目に来襲が確認出来るのは、午後九時五分から午後一〇時一五分で、四機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・六』 一六頁)

これに該当するのが、沖縄嘉手納飛行場を午後八時に発進した、第五四三海兵夜戦飛行隊のF6F(夜戦型)二機(焼夷弾二発とロケット弾六発を装備)だった。奄美大島に午後九時から午後一〇時に到達し、水上機基地を一機が爆弾一発で攻撃し、命中したが損害は確認出来なかった。

 この来襲は、赤木名町も攻撃し、爆弾二発とロケット弾四発を投下した。(「林博史提供史料 407/427/2487」)この日は宇検村阿室集落の出身者一名が死亡している。(註3)空襲の詳しい状況は不明である。

 

(註1)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七)所収) 一〇四頁

(註2)東健一郎「龍郷町の戦時(太平洋戦争)について」(『奄美郷土研究会報』第二三号 一九八三) 八三頁

(註3)東健一郎「大和・宇検・住用の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二四号 一九八四) 三九頁