下町・秋津探偵社

作:おきくら 周(あまね)

 

No,23

 貴司の担当している台東区界隈で発生した殺人事件とその捜査の進捗状況は、都度、捜査当局からメディアを通じて市民にも公開されたが、未だ核心に至らぬ状況に事件発生現場の近隣住民からも不安の声が聞こえ始めていた。事件当初は被害者の周辺から比較的、早い段階で重要人物と目される数名の被疑者が挙がっていたのだが、各々のアリバイの裏付けを注意深く探ってみると被疑者として残る者は一人としていなくなっていた。これは、早期に被疑者を絞り込んだ結果の勇み足ともいえた。

 

捜査は結局、振り出しに戻され、当局の内部からも初動捜査を問題視する声があがり始めていた。しかし、辛くも新たな被疑者が急遽浮上したため、本部では何とか捜査の対面を保つことができた。その事件の近況は新聞各社からは一斉に報じられたのだが、それらが購読者の手元へと届く前にSNSを通じて既に周知されていて、今朝の新聞などは結果として、それらの後追い記事の中の一つとなっていたのだった。「今や新聞の即時性などはすっかりSNSに奪われてしまったな」と秋津は呟きながら一応新聞にも目を通してそれら情報の再確認をしていた。

 

「最近では既成メディアの購読数も随分と低迷していて広告収入も減らしているらしいですよ」とみどりはその呟きに同調しながら淹れたてのインスタントコーヒーを秋津の手元に差し出した。「ああ、ありがとう」と言って朝の一杯をすするのが、すっかり最近の習慣になっている。みどりも自ら淹れた同じインスタントを口にしながら「そうそう、昨夜いつものように遅くに帰ってきた兄が、秋津さんのお陰で助かったと言っていましたよ」正確には今朝の午前零時過ぎになるのだが、そもそもは2日前、秋津の元へ顔を出した貴司が、現在捜査中の殺人事件の被害者が、秋津の案件と僅かながら重なるという偶然から、その秋津案件の死亡者の詳細を念のために調べてみた結果を秋津に伝えるべく、再びここにやってきた際のことに由来していた。

 

まず、例の十数年前に溺死した男の素性を確認すべく当時の管轄部署であった墨田区西本所署では、男が所持していた免許証から本名を“竹島竜二”と認定して、この本籍である青森の実家へと連絡を取った。突然の知らせを受けた竹島家の家族は上京し警察署に出向き遺体を確認した。額の新しい火傷痕も含めて、まったく変わり果てた姿ではあったが、確かに長男の竹島竜二であるという事実を認めざるを得なかった。そしてその直後に捜査員からここに至るまでの説明を受けて直後に幾つかの事情を聴かれた。警察は被害者の内ポケットにあった賃貸アパートの契約書の写しから居住所を探し出し、そこにあった生活上の使用物やその他の遺留品を押収しており、それを家族に見せながら一つずつ検分していった。

 

その中にあの日記帳とカルテも含まれていたが、家族にとってはこの出来事が、まったく降って湧いた災難かのようで、東京の映画製作会社で働いているとばかり思っていた息子が、まさか一時、帰郷していて、しかも、実家には立ち寄らずに再び上京していたなどとは考えられる筈もなく、たった今、本人確認をしたばかりの遺体以外の遺留品に至っては都内で購入した物なのであろう家族には全く見覚えのない代物ばかりであった。ましてや、日記帳やらカルテやら見せられても、そこに書かれた名義の “鹿沢守男”なる人物にも「全くもって聞いたことも見た覚えもない人物です」と答えるしかなかった。

 

特にカルテに関してはドイツ語表記の病歴と治療の状況を自らの翻訳でメモ書きしたと思われる部分を見るとⅡ度熱傷とあり、まるでアパート火災の巻き添えで負傷した彼の未来を彷彿とさせるような予言めいた内容にも思えた。しかし、そのようなことがあり得るのだろうかという家族の混乱ぶりは、それを見ていた捜査員の「ただの偶然でしょう」という酷くまともな助言を受けて、それが一般常識の範疇であろうと、そのまま飲み込むしかなかったようだった。

                                 (No,24へつづく)

 

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。

 

ぱぱ日記

 最近のネットでの一大関心事として、2025年(7月5日)を端緒とした日本と周辺の大災害発生の予言がありますよね。これは、世界に広がった予言の集大成にもつながり、各宗教にも込められた一種の”終末予言”に属するもののようです。隕石襲来、これと関連して地震や津波など日本で発生した大災害やあるいは更に、第三次世界大戦による核攻撃と、これによる文明の終焉などのようです。このような悲惨な現実を辛くも食い止める最後の希望として、東洋的な考え方・思想が唯一の解決策で、ここで先の日本の存在が世界各国の予言の救世主的な立場として登場するようなのです。もっとも、これらの予言などは周期的に昔から必ずブームになるようで、しかし、結局は杞憂に終わることを繰り返してきたようです。果たして来年、世界はどうなっているのでしょうか。