La Forza del Destino
Arturo Toscanini NBC Symphony Orchestra 1944
インテンポで直情的だとされるトスカニーニ。優秀な音質で且つ優秀な映像が残されていることで、1世紀近く前の時代の空気を感じることが出来ます。
演奏風景だけではなくて、録音そして中継されていく様子が解説されていてとても得るところの多い映像ですね。
アナログのマイクで録音された音が、真空管の増幅装置を通って中継放送されています。
1970年代半ばまでは、録音された音は真空管のアンプだったわけですけれども、その後はトランジスタで放送されて聴く方もトランジスタのラジオで聴いていた音楽とは、真空管の電蓄を通して中継された音楽を聴いていた1940年代は違うものを聴いていたのかもしれません。
今、デジタルにリマスタリングされた音でトスカニーニの演奏を聴いても、何ら薄っぺらで乾いた音楽にはなっていませんね。
ヴェルディ、ワグナー、ベートーヴェン。わたしは古い演奏、録音を新しい演奏、録音を聴く時の基準にするわけでしけれども、トスカニーニの演奏、録音はとても助けになっています。
ヴェルディの小交響曲と言っても良さそうな、歌劇『運命の力』序曲。出演者が全て話の途中で死んでしまうという大悲劇。その悲痛さが冒頭の三和音で一瞬に伝わります。後半、陽気がメロディが祝典的な響きを誘いますけれども、低い弦楽器で床の下から悲痛さが支えていて熱い空気と冷たい空気がない交ぜになって、悲劇を越えたものが待っているような気持ちになります。
わたしがオペラに目覚めたのは、この『運命の力』序曲をFMラジオの中継で聴いた時だと思います。曲の途中から慌ててテープに録音して、繰り返し聴いていました。
その時の演奏者などは分からないのですけど、トスカニーニの演奏とは違った純粋なオーケストラサウンドで、ゲルギエフの演奏をお行儀良くした感じのものでした。
それから暫くして、最初に買ったオペラの全曲盤は『椿姫』。クライバーの指揮したものでした。その後、ヴェルディの歌劇前奏曲、序曲全集としてカラヤン盤をよく聴いていましたけれども『運命の力』序曲の印象は違うものでした。むしろ『運命の力』序曲の印象は残っていません。
ヴェルディは最初『運命の力』には前奏曲を書いて完成させ、初演も成功させています。序曲をオペラの最初に置くことはイタリアでは既に古いスタイルとなっていた時代。その本殿であるイタリア、ミラノ・スカラ座で再上演されることになった時に、イタリアで受け入れられるようにオペラのエンディングを変更するのに加えて、何故か序曲として書き直しています。
これが何故だろうかと、推測の域を超えていないことでヴェルディその人に尋ねるしか分からないでしょう。
トスカニーニの演奏で聞くと、ヴェルディが何故いったん書いた前奏曲を、序曲に書き直したのか分かるような気持ちが、わたしはします。
わたしのような女だから、そう感じるのかも知れませんけれども。トスカニーニのこの序曲の演奏を聴いていると、ワグナーの狂乱したような楽劇をイメージしないではいられません。
どことなくローエングリンや、タンホイザーのヴェーヌスベルクを聞くような思いになるのはわたしだけでしょうか。
祝典的な陽気でエキセントリックな響きと、不気味で神秘的でもある三和音や、低弦楽器の奏する旋律。
背信感を胸に秘めながらも、ヴィーナスとの愛欲に興じるエキセントリックなものが感じられてしようがありません。
この歌劇『運命の力』のイタリア改訂版を初演した、指揮者マリアーニの婚約者だったソプラノ歌手、テレーゼ・シュトルツとヴェルディが直後に愛人関係になってしまいます。
それまで仲の良かったマリアーニは、ヴェルディと決別してワグナー指揮者に宗旨替えをします。
出来事と序曲の作曲は、時間的には前後していますけれども『運命の力』というタイトルからして、予言していたのではないかしら。
それにこの序曲、ハ長調の和音で終わっています。時同じしてバイロイトで上演されていた『ニーベルングの指環』で葬送行進曲の直前に一度だけ響くハ長調の和音とつながりがある気がしてなりません。
わたしの憶測の域を出るものではないけれども、序曲の冒頭の三和音が、ベートーヴェンの運命交響曲とゆかりがあるように言われているように、ワグナーのジークフリートも『運命交響曲』が底流に感じられます。
そもそもワグナーはイタリアの透明感のある明るい響きを理想として『さまよえるオランダ人』など作曲しています。亡くなる地として選んだのもヴェネツィアでした。
どことなくワグナーの理想とした音楽を、ヴェルディが『運命の力』として書き上げたような気がします。