蝉の声が耳を突くように鳴いていた。

学校が夏休みに入り、悠は都会の喧騒を離れ、祖父母の住む海沿いの町へとやってきた。

両親はいつものように海外出張。ひとり家にいても誰も帰ってこないから、祖父母の家で過ごす方がまだ賑やかだと思ったのだ。


祖父母の家は、潮の匂いのする風が絶えず吹き抜ける古い木造の家だった。

畳の匂いと、昼下がりの縁側のぬくもり。どれも、懐かしい夏の記憶を思い出させた。


「悠、あの洞窟には近づいちゃいけないよ」

夕食のとき、祖母が唐突にそう言った。

「え?」

「昔からね、あそこに行った子は帰ってこなくなるって話なんだよ」

「迷信だよ、ばあちゃん」

祖父が笑いながらも、箸を止めた。

「いや、あれは迷信じゃない。わしが子どものころからあるんだ。洞窟の奥には“誰か”がいるらしい」


その“誰か”という言葉が、悠の胸に引っかかった。


翌朝、潮の香りに誘われるように、悠は海岸沿いの崖の方へと歩いていた。

青い海と、焼けた砂の間を通り抜けると、黒い岩の影に口を開けた洞窟が現れた。

中はひんやりとして、外の世界とは別の時間が流れているようだった。


――入っちゃいけない。


祖母の声が頭をよぎったが、足は止まらなかった。

洞窟の奥から、水の滴る音がした。

そしてその奥に――人影。


「誰?」

悠が声をかけると、振り返ったのは自分と同じくらいの年の少年だった。

黒い髪、透けるような白い肌。どこか現実味のない、静かな目をしていた。


「……君、ここに来ちゃだめだよ」

少年は淡々とした声で言った。


「なんで?」

「ここは“外”と違う。僕は、もう帰れない場所だから」


その言葉に、悠は思わず息をのんだ。

少年は小さな笑みを浮かべる。


「でも、君が来てくれてうれしい」


洞窟の奥には、水の溜まった小さな泉があった。

天井の穴から光が差し込み、少年の輪郭を淡く照らす。

悠はその場所で、少年といくつかの話をした。

学校のこと、好きな食べ物、海の色。

少年はどれも、まるで遠い昔の話を聞くように穏やかに笑っていた。


「君、名前は?」と悠が尋ねると、少年は一瞬だけ目を伏せた。

「……僕はもう、名前を忘れたんだ」

「忘れた?」

「長い間、ここにいるうちに。外のこと、少しずつ思い出せなくなった」


その声は、波の音に溶けていった。


やがて、外の空が夕焼けに染まるころ、悠は立ち上がった。

「また来てもいい?」

少年は少し驚いたように目を見開き、やがて静かに頷いた。


翌日も、悠は洞窟へ向かった。

何日も、何度も。

少年と過ごす時間は不思議と心地よく、まるで夢の中にいるようだった。


けれどある日、洞窟に行くと少年の姿はなかった。

泉の水面に映るのは、ただ自分の影だけ。


「……どこに行ったの?」


声が洞窟に反響するだけで、返事はない。

代わりに、泉のほとりに小さな貝殻が一つ置かれていた。

白く、光を受けてきらめくそれを手に取った瞬間、潮の香りが強くなった。


その夜、祖父母にその話をすると、祖父は静かに言った。

「その少年、たぶんこの町の子じゃないかもしれんね」

「え?」

「昔、嵐で流された子がいた。もう何十年も前のことだけどな……」


悠はしばらく何も言えなかった。


翌朝、海へ行くと、波打ち際に昨日と同じ貝殻がもう一つ打ち上げられていた。

潮風が髪を揺らす。

まるで“ありがとう”と言われたような気がした。


悠はその貝を胸に当て、静かに笑った。


――夏の終わり、あの洞窟の前を通るたびに、

潮騒の音の中に、あの少年の声が混じっているような気がする。


それは、確かに存在した“夏の記憶”だった。