どーも、子連れおーかみです。


少しご無沙汰しました。強烈にバタバタしていて、年度が明けてもそのまま続きそうです。最近、本当に仕事に時期的なメリハリが無くなってのべつ幕なしに忙しくて大変です。これも人手不足が原因なんでしょうが。。。


因みに今の仙台は、ソメイヨシノが五分咲くらいの状態です。


所で最近、久々に戦争映画を観ました。


今回はこれ。深作欣二監督の「軍旗はためく下(もと)に」(1972年東宝作品)。パッケージの通り、丹波のおやっさんと左幸子が主演。

終戦後のニューギニアで起こった日本兵処刑事件をモチーフとした陰鬱な映画で、人肉食の話とか出てきます。

ニューギニアの戦闘は本当に悲惨で、上陸した約20万の日本兵の内、終戦後生きて日本に帰れたのは2万余りに過ぎなかったそうです。

死因の殆どが餓死。

かの神軍平等兵こと、奥崎謙三氏が出演する伝説のカルト映画「ゆきゆきて、神軍」も同じ人肉食が発端の日本兵処刑事件をモチーフにしていますので、この手の事件はニューギニアで本当に頻発していたのでしょうね。

まさに生き地獄という表現も生やさしい、ぎりぎりの極限状態です。

それもこれも日本が兵站補給を軽視した、と言うより兵站補給の限界を無視して戦線を広げてしまった事が原因なのですが、こう言う状況を見るにつけ、戦争すなわち兵站補給、と言っても過言では無いと心底思います。

軍隊の戦力を維持するには、必要容量の3倍の物量(本国で積み出し待ちが1、輸送中が1、現地に集積しているもの1)を常に確保する必要が有ると言われていますから、広い地域に展開した何十万、何百万の兵力を常時戦闘可能な状態にしておくには、途方も無い物量が必要となり、加えてその物量を担保する膨大な生産量と輸送力が必要になって来る事が分かります。

よく「素人は『戦略』を語り、プロは『兵站』を語る」と言いますが、本当に至言だと思います。

兵站の見通しが立たなければ、戦略以前に戦うことすら出来ない。

だが、素人はどうしても表面的な戦闘ばかり見がちです。だってそっちの方が分かりやすいし、兵站なんてやって当たり前で、地味過ぎて注目もされないし、インスタ映えもしなそうだし(笑)。

しかし、そういう考えって本当に浅はかと言うか、「プロ」でないと思います。だって、素人と目の付け所が違うのが「プロ」なんだから。

結局戦闘ばかりに注目し、兵站補給を二の次にしたから日本は負けたのだし、そもそも兵站能力=経済力・生産力・動員力から考えたら、日本がアメリカに絶対に勝てるわけが無かった。

まあ、太平洋戦争にはそれ以外の側面も沢山有ったので「負ける戦をしやがって。。。」とは単純には言いませんが、「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」などという戯言が自然に出てきてしまうような、兵站を軽視する性質が日本から無くならない限り、世界相手の戦争なんてするものじゃなかった、と本当に思います。

残念ながら、日本人はこう言う点では本当に物事の上っ面しか見ず、本質を見ない残念な性質が有ると思います。

最近その典型的な例だと思ったのが、最近よく聞く過剰な母親の子育て礼賛。

曰く、子供は皆女性から生まれて来て、女性は子供を命を掛けて産んでいる。そして日々子供に寄り添って子育てする事は何よりも大変で、仕事なんかとは比べ物にならないくらい神聖な行為である。だから母親は最も称賛されるべき存在で、一番エラいのだ、と。

そしてその思想の延長なのだろうが、そのかけがえの無い生命を維持し育むのに欠かせない日々の糧を得る為に、身を削っている父親の働きは当然視して感謝もしないどころか、逆に仕事だけしていて楽している、子育てに参加しない、家事を分担しないと寄って集って責め立てている。

まあ、確かに子供は男には産めませんよね。

それに始終子供に寄り添って育てるのはやはり大変だと思います。それは認める。

しかし、そもそも子供は男女で作るもので、どっちが欠けても産まれません。それに産まれた後も、ただ母親が毎日寄り添うだけで子供が育つのでしょうか?

仙人でもあるまいし、そんな事あるわけあるかい。

日本の多くの家庭では、父親が外で働いて得た給与収入で衣食住を賄う事で、はじめて母親も子育てが出来ているはずです。子供は母親の母乳で育つかも知れないが、母親にその母乳の源となる食事を提供しているのは、父親の稼ぎなのです。

まさに生まれて来た生命を育むために、父親は外で身を削っているわけですが、それは子育ての勘定には入らないそうだ。

バカも休み休み言えと言いたい所ですが、挙句の果てには疲れて帰って来る父親をなじって、「あんたは仕事だけしていて楽でいいね」などと見当違いな非難をする愚かな専業主婦に、賛同する声が多数集まる。

このバカげた非難こそ、まさに表面的な戦闘ばかりにフォーカスし、戦争の本質である兵站を軽視した結果戦争に敗れた、日本思想の軽率な側面の形を変えた表れだと私は思っています。

そして、その手のバカげたトンデモ論に誰も反論せず、或いは反論しても感情論や精神論に押し切られてそれが罷り通ってしまう。

戦闘力を維持するには、兵器・弾薬だけでは無く、糧食や被服も補給する必要がある。さらに戦闘開始前には「基数」という一戦闘に必要とされる決まった物量を蓄積させる必要がある。更に兵器を常に稼働状態に維持する為に必要なパーツや、メンテナンスに必要な機械類など、本当にありとあらゆるものが必要で、それをどうやって全部用意できるか?その見通し有っての戦闘なのです。

結局、こう言った大前提の経済的側面を軽視してと言うか度外視して、戦術やら勇気やら分かり易い上っ面ばかりにフォーカスした結果が太平洋戦争の敗北だった。

戦争も家庭生活も、結局は経済力が大前提である点は変わり有りません。

しかし、それを日本の女性の多くは直視しようとせず、「それはあって当たり前の事」「考えるまでも無くある事」を前提としている。

「子育ての過剰な神聖化」に限らず、専業主婦とか「女性の選択肢の多様化」とか、女性は結局経済に関する事を「経済は男が、旦那が何とかするでしょ、ていうか何とかするのが当たり前だから考える必要が無い」と言う前提に立っているように思えてなりません。

正に、何もしなくても兵站は有る前提で作戦を立案している日本軍の思想そのものだと思います。

これは本当に危ういと思う。前の文でも言ったようにその兵站=経済力を確保し続ける事が一番難しいのだ。

「戦況が良い」うちはいいですが、戦況なんて相手が有るものですから、あっという間に変わります。

それこそ、今景気が良い会社が10年後も変わらずで有る保証など全く無い。だから、常に有事に備えて準備をしておく必要が有り、それを想定したら、当然1馬力より2馬力で働いた方が良いのは当たり前だ。

そんな自明の事をしようとしない女性が多いのはなぜか?

バブルが崩壊してから30年以上経って、世界の状況や社会構造は当時とガラッと変わっています。

それを未だに昔日の栄光にしがみついて、世界に取り残されつつ有るのが今の日本です。

太平洋戦争終戦の昭和20年をバブル崩壊の年と考えたら、今は昭和53年ですよ。昭和53年に竹槍抱えて「本土決戦で鬼畜米英を迎え撃つ!」なんてやってたら、気○い扱いされたと思いますが、やってることはそれと同じだと思います。

いい加減に現実を直視しなさい、特に女性、と言いたい。

もう「古き良き時代」はとっくに終っていて、日本はこれからは夫婦で必死に働かないと「兵站補給」を維持できない時代が到来していることを、令和6年になっても未だに認めようとしないのか?

詰まる所、大変な責任を伴う家計を支えるリスクを今まで通り男性にだけに押し付け、その一方で子育てや家事は「今の時代当たり前」と都合よく主張して分担させつつ、自分は出来るだけリスクを負わないお気軽なライフスタイルを維持しようとしてるんじゃないか?

そして、働かない理由を正当化する為に、子育てを必要以上に神聖化しようとしている。私にはそう思えてなりません。

こうして文章に落とし込むと、日本の女性はなんて狡くて無責任で冷酷なんでしょうか。

勿論、個人差は大いにあって、実際はそうでない女性も多数いるのは分ってはいるが、私の肌感覚では全般的な傾向として上記のような感覚の持ち主の女性がまだまだ多数派な気がしてならない。

全て私が私が私が。。。自己生存本能の塊のような存在ばかり。。。。

そりゃそんなんじゃ、男性も結婚したくなくなるのが良く理解できる。

現実よ直視できず、大変な状況を分かち合えないパートナーなんて単なるお荷物だ。

実際に日本は女性だけでなく、国自体も本質的に冷酷だと思います。

太平洋戦争時に有っては、兵站補給の見通しも立たない世界各地に兵隊を送り込むだけ送り込んで、結果140万人も餓死させた。

そして、今に至ってはこれだけ国民が物価高と上がらない賃金苦しんでいるのに無為無策で必要な措置すら取ろうとしないどころか、政治家達は自分の私利私欲を満たす事ばかりしているのを、最早隠そうともしない。

こんなバカげた状態に、怒らない、いや怒り方すら忘れてしまった国民も国民だ。

ネットの人生相談で「妻の不機嫌が嫌なので、怒らないように機嫌を取ってます」なんてコメントしてる男なんか見ると、こんな状況もさもありなん、と思ってしまう。全く常軌を逸している。

昔、作家の村上龍氏は「全ての男は消耗品である」と言った。グリコ・森永事件の犯人と噂されたヤクザで無頼派評論家の宮崎学氏は「サラリーマンは常に土下座している存在」と喝破した。

まさに、その通りの状況じゃないか。

「唾棄すべき」という表現がこれほど合う状況は無い。

理不尽な事を言う妻に、一言物申す事も出来ないのか?

「自民党の代わりになる政党が無いから」「政治家何か皆同じ」と斜に構えて選挙にすら行かない。愚痴ばかり言って、結局現状を変える行動は全くしようとしない。

結局は横着な上に小心で、ほんの少しのリスクを負うことすらいやなのだ。目の前の10円を失う方が、将来の500円失うことよりも嫌なのだ。

自分の一言でぶっ壊れてしまうような家庭なら、その程度のものなんだから、早々にぶっ壊してしまえばいいじゃないか。

自民党に代わる政党がダメダメなら選挙の度に何度も叩き落として、真の政権政党となる政党を育てて行けばいいじゃないか?

そう言う勇気と時間と根気が必要な事は取り組もうとせず、安易に表面的な結果ばかり求める。

なんか話が纏まらなくなってきてしまいましたが、この兵站補給という科学的根気強さ(山本七平氏の言う「高度な平凡さ」)を必要とする事を軽視して瞬間瞬間なエモーショナルな場面の方に重きを置くようなある種軽薄な性質は、民族の業(ごう)みたいなもので、やはりいつまで経っても治らないものなのではないか?と本当に思います。

ますます「戦局が悪化している」昨今、このままでは日本国民全員が補給不足で「飢餓状態」になってしまう。

ここまで状況が悪くなったら、男女関係無く力を合わせて一生懸命働いて、お互い苦労を分かち合いながら、再び良い方へ向かって行くしか無いと思います。

なのでこれは心ある女性に対しては本当に失礼だと思いますが、自分達の無意識下に有る「自分は女性なんだからやらなくて良い」と言う意識を自発的に捨てる努力を、もう少しした方が良いと思います。
自分達が男性に色々求めるのであれば。

結局口先だけではあれこれ言っても、「働く」==「自分と家族の生命を維持し未来を約束する為の兵站補給」から逃亡していては、何を言おうが全く説得力を持たないので。

「ジェンダー平等」のご先祖様の「ウーマン・リブ運動」がはじまって早い40年以上。いい加減に「女性はか弱い被害者」と言うステレオタイプの男女平等像は捨て去って、女性も「兵站補給」の重要性を直視して、パートナーと負担もリスクも責任も分担して苦難を乗り越えてゆくと言う新しい関係性を築くべきなんじゃないか?

そして社会も「女性だから」と甘やかすのをいい加減やめて、多少の軋轢は生じても、人間として必要となる義務と責任をきちんと求める厳しさを持った方が良い。それが、日本の活力にもつながると思います。

甘い社会なんてものは、爛れて弛緩するだけだ。

何かまとまらず長くなってしまいましたが、それではまた✋。