あの阪神淡路大震災から15年経ちました。
当時私は、兵庫県に住んでいましたが、神戸には住んでいなかったので、神戸の中心部と比べると、幸いなことに周辺ではそこまで大きな被害はありませんでした。
震度4でしたが、今までに感じたことのない、あの突き上げるような大きな衝撃を今でも覚えています。
私の家は2階建てで、当時私は2階に寝ていました。
直下型地震は、今までの揺れとは全く違うもので、例えるならば、巨大な生き物が地下から家の真下に向かってものすごい勢いで突進してきて、家ごと持ち上げられているような感じでした。
それも何度も何度も持ち上げられたような気がします。
すぐに母が私の元にやってきて、覆いかぶさるように自分を守ろうとしてくれたことを今でもよく覚えています。
そして、1階で飼っていた犬も、心配で1階に行こうとする私を止めて、母が連れてきてくれました。
地震のあと、すぐに親族に電話を掛けましたが、なかなかつながりませんでした。
震源地も震度も、被害状況も分からず、ただただいつ報道されるかとテレビを食い入るように見ていました。
朝方になってようやく、上空からの映像を見ることができました。
それは見たこともない、愕然とするような映像でした。
私は、実際に被災直後の被災地を目にしてはいません。
それは、高速道路も倒壊し、危険だという両親の判断もありましたが、実際のところ、両親が救援作業に向かう車には、支援物資が積み込まれ、力のない幼い私たちが占拠するスペースなどありませんでした。
当時、どこのコンビにもペットボトルの水は売り切れ、トイレットペーパーやカイロ、保存食など、被災地に最低限必要だと思われるようなあらゆるものが、品薄、品切れになっていました。
神戸の中心部では、あちらこちらと火の手があがり、跡形もなく崩れていった街を目の当たりにした両親は、悲壮な顔をして帰ってきました。
私の家族にとっての一番の被災は、父の経営する会社が焼失してしまったことでした。
当時、神戸に事務所を構えていました。
事務所のある建物は倒壊はしていましたが、燃えてはいなかったので、大事な書類が生きていることに安堵していた両親ですが、倒壊している建物でしたので、安全確認ができるまではどうにも入ることができないと言われ一旦帰ってきた時でした。
テレビでは火事の情報が次々と報道されていた中で、見慣れた風景が真っ赤に染まっていました。
原因は、放火でした。
天災に限らないのかもしれませんが、人が極限に追い込まれたとき、パニック状態になると、こういうとても悲しい二次災害が起きてしまうことがあるそうです。
自然発火であれば、どうもしようがありません。
なのに、火の手のないところに、人為的に火をつける、愉快犯。
ましてや消防も警察も何もかもパニックで、足りていない最悪の状態で、このようなことが起こるのはあまりにも悲しすぎることでした。
もし、そこに救われる命があったとしたら・・・
この震災で、震災後放火されたケースは他にもあったそうです。
そう思うだけで、何とも言えない悔しさや怒りを覚えずにはいられませんでした。
被災状況や程度は、本当に人それぞれです。
私の家族の場合は、本当に運が良かったとしか言いようがありません。
両親にとって、今まで積み上げてきた仕事の全てを跡形もなく失ったことはとても残念なことでした。
それでも、運が良かった。
少しでも時間がずれていたら、両親は通勤でいつも使う倒壊した高速に乗っていたかもしれませんし、事務所の下敷きになっていたかもしれません。
もし、あの火災の時に、事務所の中に入って作業しようとしていたら・・・
本当に少しのタイミングで生死が隣り合わせになっていたんだと思います。
きりがないと分かっていても、こうすればよかった、ああしておけばよかった、という行き場のない後悔の念も沢山あったでしょう。
全てを失い想像を絶するような悲しみに暮れた人も本当に本当に沢山おられたと思います。
確かに直接目の当たりにしていないのですが、
お風呂に入れることを涙して喜んでくれた人もいました。
神戸という街が、絶望と悲しみに包まれていたんだと思います。
でも、それと同時に、沢山の愛に溢れていたことも事実だと思います。
互いに支えあって、助け合って、この15年という歳月で、今ではほとんど街も再生したのですから。
この地震で沢山の方の命が奪われました。
被災をした経験を、忘れることはないでしょうし、忘れてはならない。
こうして月日が過ぎ、街も人もどんどん変化しています。
それでも今も、被災した心の傷と闘いながらの人もいらっしゃると思います。
でも、必ず前に人は歩いて行けるんだ、心も体も立て直そうとするすごいエネルギーがあるんだということをこの15年でこれだけ証明したということは、本当に素晴らしいことだと思います。
私は地元も大好きですが、神戸も大好きです。
今は神戸市民の1人として、これからも神戸を応援してきたいと思います。