almatsu62のブログ

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来日35年になるが、これまでの体験や日本観察について、そして定期的に訪れた中南米諸国について書いてみたいと思う。

 1990年4月3日に成田空港に着いたことを今も鮮明に覚えている。

 国費留学生だったので、当時の文部省の外郭団体職員が我々を迎え、自分の配属先が筑波大学だったのでタクシー券を渡され、その車で出向いた。1年半みっちり留学生向けの日本語を学び、そのおかげで後から横浜国立大学で修士号を取得することができた。学位をとって本国に帰る若者が多かった時代だし、今と違って就活も在留資格変更もそう簡単にできなかったのである(幸に僕は日系二世なのですぐに変更が許可された)。

 とはいえ、90年代というと南米の日系就労者が大量にやってきた時期であり、これは人手不足を補うために日本政府が入管法を改正してまで受入を容易にしたのである。成田空港には主にブラジルやペルーから多くの日系人や「日系人らしき」ものが到着していたが、当初僕はそのことをあまり理解していなかった。しかし、筑波大にいたときから時々近くの工場で通訳をして欲しいという依頼があり、契約関係や労災、労働者の病気(ときには高度な治療や手術)にも対応しなくてはならなかった。

 大学院では法律を専攻し、労働法の先生が論文の指導教官になってくれたので日本の労働市場の仕組みや紛争処理方法についても学べた。もちろんのこと、日本の民法や刑事・民事訴訟法なども受講した。とても難しかったし、それを頭の中ではスペイン語で訳してしまうことも困難で今のように専門の辞書もなかったのである。アルゼンチンでは、政治・国際関係を専攻していたので法律の科目は受講していたとはいえ、法律のボキャブラリーそのものが乏しく日本語では日本語でしか理解できないと気づき、法律用語辞典や判例百選等を活用して様々な事件について勉強した。判事が書いた判決文も初めは分からなくても、次第に理解するようになりその奥深さや日本的なスタイルと曖昧さ、どこでその文書の切れ目があるのかまで少しずつ分かるようになった。そうしたときにある弁護士から連絡が入り、「弁護している南米麻薬事件なのだが、法廷通訳人がブラジル人なのでどうも意思疎通がうまくとれていないのでチェッカーをお願いしたい」という内容だった。それがきっかけで、その後裁判所に登録され、2023年まで約30年間裁判所の通訳を務めた(東京、横浜、埼玉等)。刑事事件が多かったが、民事や家事事件も近年多かったのである。

 日本で結婚しそれ以来ずっとこの横浜に住んでいる。外国人労働者についても、あらゆる場で発言したり研究グループや勉強会にも参加してきたが、日本の外国人アレルギー、移民アレルギー(表にはあまり出さないが、なぜそこまで警戒するのか)には今も理解しにくいところがあるし、政府の「多文化共生、内なる(自治体や地域社会のことだろうと思うのだが)国際化、社会統合」政策には矛盾と卑怯なところが見え隠れする(予算もつけて様々な支援をしているが、その効果にも疑問があるし、そこまでする必要があるのか、もしかしてそうした事業は外国人の自立を妨げているのか、と思ってしまう)。人手が足りないといういが、その理由やその産業にどこまで必要なのか、なぜ日本人がそうした分野で働かないのかをもっと検証しなくてはならない。技能実習や特定技能という「資格」を与えても結局は単純労働プラスαなので、あまり競争力のない企業の延命措置になってしまったいるのかもしれない、と思ってしまうことが多い。

 毎年、4月3日になると日本に到着したときが蘇る。28歳だったので、生まれ育ったアルゼンチンでの生活より長くなってしまった。多くの人に世話になり、たくさんのことを学べたし、色々な課題に関わることができたので多少なりとも貢献もできたと自負しているが、日本という社会は変わりにくいとつくづく思う反面、南米より柔軟でブラグマティックなところもあるので、もっと積極的に変化や外からのインパクトを恐れずうまく吸収して欲しい。

 2025年3月2日  アルベルト松本