魂の喜びを、そして自然のリズムを感じたいyogiの日記

魂の喜びを、そして自然のリズムを感じたいyogiの日記

名古屋市にてヨーガを伝え、そしてセラピストとして活動をしています。
魂の喜びを感じている毎日の生活、思うことを綴っていきます。

水が好きと思ったのは大人になってから。


飲むのが好きということではなく、「水」というものが持つ性質が好きなんです。

どこにでも溶け込める。そして、遠くへも流れていける。
人の前から姿を消すこともできるくらい小さくなれるし、大きく集まれば大海原のように私たちの視界では追えないぐらいの存在にもなる。
水が動くときの音は癒しそのものです😌



私は子供のころからグループというものが好きではなかった。
もちろん今でもそうですが、大人になるとグループに属するのかフリーのような立場でいるのか選択しやすくなる。
「大人になると」というのは、自分で責任がとれるという意味。


なので社会に出て、合わないグループに入ったとき「仕方ないから」と言ってその部署(グループ)に染まらざるを得ないという人は苦しいなり、毎日がつまらないなり…あきらめがあるよね。こういうものなんだと笑い泣き


でも私は「仕方ない」とか「そういうわけにいかない」とかはやっぱり自分が決めるんだと思っていて、なにか世の中の基準で「それはやらないとダメなんだよー」「義務なんだ」みたいなことって実はないんだと思ってます。



私はいろんな学びをしていて思うのは、いろんな意見がいっぱいあり、答えすら複数ある、そして方法も多くあるということです。
つまり何かを勉強したとき、「その先生だけの意見」「この講座で受けた内容がすべて」ではないんです。
なので誰かの教えを受けて「私はそう思わない」もしくは「私が習ったのと違う」と思ったら、私はどうしているかというと「なぜそう思わないのか」を必ず解答しています。
これをやるのは自分が答えかもしれないし、相手が答えかもしれないし、双方が答えであるかもだからです。

なので、グループに所属…例えばなんとか協会とかね。○○講座認定とかもそうなんだけど、そこの認定うけてその講座のネーミングを引っ提げて教える、またそこに所属したらそこでの教えが基準になってしまうよね?
だから所属は嫌なのよ、グループ。


まぁこれは当たり前のことでもあります。その先生が自分の名前で認定し、自分のその教えを広めてもらうことになるので当然です。誰が自分の教えを広めているのかは把握する必要がある。変なこと勝手にされたら困るもんね。



ただ学んだあと、自分の理論もありアレンジしながらやりたい人もいますよね?いろんな学びをしていると必ず自分の中の知識と新たなものが繋がるということもおきます。

私は完全にこのタイプ。

なので私は属さないようにしています。アレンジ派です。



私がこの記事を書いた理由は、二つ。

ちょっとした意見の相違でバチバチやってる人達が多いように感じるから。
もう一つは自然志向の人や「真実はこうです」みたいな方々が増えてきて、その意見の押しが強いなと感じるからです。


ここ最近は、隠れてた悪事とかも明るみに出てきてますよね。食のことも。日本そのものを大事に守っていきたい人が出てきている。とてもいいことだと思う。
でもそこで少し意見が違っただけで、そうじゃないと攻撃したり、もう付き合えないとなったり…泣くうさぎ
自分が受け入れる知識などが少なくなることで、人付き合いだけでなく、見えている景色も狭くなってしまう気がする。

「○○じゃないとダメ」みたいな強いメッセージがときには必要だけど。
ただ自分が少しでも違和感があると感じたならば、今は無理にしなくてもいいと思うし、その人の違う意見というのは尊重という形をとるほうが良いと思うなー。自分がその違和感の中に入る必要はないよー。



水のように。


環境に合わせて自分が心地よいように、いろんな形に変化していけばいいと思う。


溶け込むのもあり。


はじかれるのだってあり。