君を殺してよかった 1 廻里灯人という物語 壱 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

◆◆◆廻里灯人(めぐり・ともひと)という物語◆◆◆

---終わりの始まり---

 廻里灯人という少年を一言で表現するとするのならば、彼はシスコンだった。
 どうしようもないシスコン野郎であり、周囲はもはやどうにも出来ないくらいに自分の妹を溺愛していた。
『目に入れても痛くない』という表現があるけれど、彼は常々、
「僕は鳴希(なき)を目に入れても痛くないよ。というか既に入れた事すらある」
 と嘯いていた。廻里鳴希(めぐり・なき)。それが彼の妹の名前である。こちらもこちらでどうしようもないブラコン少女ではある。そもそも灯人が鳴希の事を『目に入れても痛くない』と表現する事を思い付いたのは、妹が度々自身の眼球を狙って来るからだった。鳴希は『自分の事だけを見て欲しい』と灯人に対して願っていた。そしてそれが叶わないのなら、いっそ灯人に視覚を失わせて、自分の事だけを想う人生を送って欲しいと願っていた。鳴希の危うい所は、それを単なる妄想に留めておけない所で、ついうっかりと本当に灯人の眼球をスプーンやフォークで狙いに行ってしまうのだった。それは二人の日常行事と言えるほどに生活に溶け込んでいる行為だった。
 灯人の方が現在、鳴希に抱いている願望はどこかしら液体的なニュアンスを孕んでいた。鳴希と舌を出し合って、小中学校の理科の授業の時に使った、ペトリ皿にお互いの唾液を溜め、それをピンセットで掻き混ぜたりしたらなかなかに愉しそうだ。あるいは、より荒唐無稽さを強めるとするのなら、二人の身体を丸ごとどうにか液状化して、そして混ぜ合わせる事は出来ないだろうか? 人間が丸々入る大鍋に、灯人と鳴希、二人分の死体を入れ、それをグツグツと煮込むのだ。そうしたら、二人のエキスが詰まった美味しいスープが出来るのでは? 風呂の浴槽にお湯を張り向き合って座り、腐乱死体になるまで話し合ったら、二人の血と肉はもう区別が付かないくらいに溶け合うのではないだろうか?
 とは言え、勿論灯人はそういった発想が妄想の類であるとはっきり断じていた。現実と妄想をはっきり分けていた。灯人は、異様な発想の持ち主ではあったが、狂人ではなかった。妄想だからこそ、自分の願望が優先されているだけであり、現実において灯人は鳴希を守るべき妹として大切にしていた。
 お互いがお互いに異様な願望と妄想を抱き合う、そんな廻里兄妹の朝は予定調和から始まる。
 それは世間一般的な常識にまだ兄妹が囚われている時分から続いている習慣であり、だから、中途半端に世間を意識した物だった。つまり、普通に考えて兄妹があまりに仲が良かったり、性的なニュアンスを含んでイチャイチャするのは危ういとされる感覚――まして、近親相姦なんて以ての外といった感覚である。
 だから、その妹から兄に贈られるキスは一応秘密だった。
 まだ灯人が寝ているという建前で、本当はいけないことなんだけれどどうしてもしてしまいたいという気持ちが抑えられない、という体でそのキスは行われた。
 しかし、灯人が寝起きが悪い――というか、起きた後にしばらく身動きが取れず、起きているんだけれど目を瞑ったままでいる時間を続ける、という前提を妹の鳴希は十分に理解していて、だから、お互いがお互いにそのキスを十分把握している事は共有されている理解ではあった。
 完全に二人とも起きたまま、意識し合ってキスをするのは不味いよね、というバランス感覚。妹側が、あくまで秘密のイベントとしてキスする分にはギリギリ大丈夫だよね、という謎の共犯意識。
 しかし、初めからバランスは崩壊していたし、ギリギリOKでも大丈夫でも何でもないという事は、二人以外の人間が見れば、すぐに理解出来ただろう。
 だって、二人はその朝のキスを、毎朝続けてきたのだから。
 もう五年以上ずっと、その習慣を疎かにした事はなかったのだから。
 鳴希は小学三年生の頃から、中学二年生の今に至るまで、ずっと毎朝のキスを捧げてきた。
 灯人は小学五年生の頃から、高校一年生の今に至るまで、ずっと毎朝のキスを受け入れてきた。
 端から見れば十分に異様な、充分に近親相姦的な兄妹ではあった。
 そして、年月を経る毎に、兄妹は自分達がシスコンでありブラコンであるという自覚を高めていった。
 しかし、それでも毎朝のキスは兄がまだ完全に起きていない時分に行われた。
 それは一種の儀式のようだった。
 それを守り抜けば自分達は大丈夫なんだ、まだ道を踏み外してはいないんだ、という約束事。
 ただただ盲目的な願掛け遊び。
 キスした後に、鳴希が「早く起きないと、現実を見ないそのお目々をスプーンで抉り取っちゃうよ~」と照れ隠しを言うまでが恒例行事。
 だけど、その日。
 灯人が高校一年生の十月十二日に、そのお約束は唐突に破られた。
 鳴希がキスしている最中に、カーテンの隙間から陽光が不意に差し込み、それが眩しかった灯人はついうっかりと目を開けてしまったのだ。
 そして今、キスを終えて身を起こそうとする途中の鳴希と、目が合った。
 ふわふわとした黒髪のロングヘア、淡い黄色のパジャマ、灯人よりいつまでも小さい背。
 そんな鳴希は目の前の現実が理解出来ないように数秒間固まり、その直後真っ赤になるまで赤面すると、パタパタという軽いスリッパの音を立てて灯人の部屋から出て行った。
 そのまま階段を降りる音が響いてくる。廻里家には二階に両親・灯人・鳴希の部屋があり、階下にリビング・キッチン・浴室がある。
「とうとうやっちゃったな……」
 灯人も一種の気恥ずかしさと気まずさを抱えながら、ベッドから身を起こす。
 当然、毎朝のキス習慣を続けていれば起こり得る事態ではあった。これまで何度も危うい時はあったし。逆に良く五年間も続いたものだ、と感慨深くさえある。
 灯人は自分のミスによって、鳴希がずっと続けてくれていたこの朝の習慣が台無しになってしまった事を申し訳なく思った。しかしそれでも兄妹の関係にこれで亀裂が入るとは微塵も想定しなかった。二人の関係は何一つ揺るがないと信じて疑わなかった。
 この物語は灯人のある種楽観的な兄妹の繋がりを信じて疑わないその心、これからも発揮され続けるその非凡で強靭な心こそが齎した物だとすら言えるのかもしれない。
 ともあれ、灯人はこの毎朝のキス習慣の崩壊はチャンスにも成り得るのではないか、と考える事にした。それは勿論、廻里兄妹のただでさえ危うい関係を更にもう一歩進める為のチャンスである。
 そうして気を取り直すと、灯人はベッドを降りて顔を洗う為に階下に降りた。

 朝食の時分になってもまだどこか鳴希はぎこちないままだった。
 鳴希はサラダが好きで、母親の作る朝食のメニューにサラダがないとレタスを千切って自作するくらいだ。
 今朝も家族で朝食を終えた後に、自分でサラダを作っていた。現在、父親はもう出勤していて、母親は食後の洗い物を始めた所だ。居間には灯人と鳴希しかいない。鳴希は自分の作ったサラダを食べながら、そのサラダの解説を灯人に対して始めた。
「……お兄ちゃん。サラダは鮮度バツグンで美味しいよ」
「うん?」
 いきなりそんな事を言い始めた鳴希に戸惑いながら灯人は応じる。
「ミニトマトはぷちゅっと潰れますしね、レタスはシャキシャキしているし」
「……うん」
「これも農家さんの努力の賜物なんだね」
「うん」
「という訳で、お兄ちゃんもこの太陽の恵みを存分に味わうといいんじゃない? ほら、あ~ん」
「…………」
 いきなりフォークを差し出してくる鳴希。いつもならいかに兄妹愛に燃える二人と言えども、流石に両親の前ではそういった振る舞いは自重しているのだけれど、どうやら今日の鳴希はタガが外れてしまっているようだ。今朝起きた事が起きた事だけに、仕方ないと言えるのかもしれない。しかし鳴希からそのサラダを口で受け取るというのは、これまで続けてきた家族での朝食風景から逸脱し過ぎている気がして、灯人は躊躇した。リビングに二人だけと言っても、台所にいる母親から兄妹の様子は筒抜けである。
 にも関わらず、今日の鳴希は躊躇を許さなかった。
「うーん……口を開けてくれないなぁ……私はこの宙に彷徨うフォークを、どこに落ち着けるべきなんだろ……そうだなぁ、私を受け入れてくれないお兄ちゃんのいけないお目々を、まるでプチトマトさながらに突き刺すのも、悪くない、かも……」
 鳴希が目から光を失ったような病んだ様子でそう言って、サラダが突き刺さったままのフォークを大きく振り上げた。
「な、鳴希ッ?!」
 思わず混乱の叫びを灯人が上げると、鳴希は正気に戻ったようにフォークの軌道を変え、自分でサラダをパクついた。
 そして、壊れた機械のようにまたこんな言葉を投げてきた。
「ねぇ、お兄ちゃん。サラダってとってもシャキシャキしていて美味しいんだよ?」

 流石に朝食後の鳴希の様子には灯人も戦慄を覚えた。元々、病みがちでちょっと目を離した隙にこちらの目を狙ってくる妹だと思ってはいたけれど、しかしそれにしたって今朝の鳴希は行き過ぎである。
 朝は母親の目を盗んで二人で長話をするのも難しいので、今日高校から帰ったら速攻で鳴希と家族会議ならぬ兄妹会議の機会を設けるべきだろう。議題は勿論、鳴希がおかしくなった主要因と思われる今朝のキスの時に目が合っちゃった事件についてである。
 そんな事を考えながら、灯人は高校に登校した。
 高校にいる時間というのは、鳴希といる時間以外にはほとんど価値を認めていない灯人にとってほとんどどうでもいい時間だった。だから何事もなく過ぎ去るのみだ。
 部活に属しておらず、だから体育会系や文化系というカテゴライズにも当てはまらず、授業の合間にまで勉強をするガリ勉でもなければ、本を読み耽る読書家でもない灯人の、色のない高校生活。
 そんな彼の学生としての時間の中で、唯一語るべき事があるとすれば、それは灯人のただ一人の友人――女友達である熾宮飛花(おきみや・ひばな)との会話くらいの物だ。
 飛花はパーマを掛けたようなクシャクシャ癖っ毛にフレームが野暮ったい黒縁メガネを付け、そしていつでも猫背という陰気さを感じさせる女子高生だ。更にいつも早口で喋る。
 そして、シスコン灯人と付き合えている事からも分かるようにかなりの変人だった。
 今日の飛花はこんな話を投げ掛けてきた。
「ねぇ、灯人。君はこの世界がゲームだったと言われたら驚くかい?」
 相変わらず異様なハイペースで喋る飛花。初めは現実において早送り再生を見ているかのような違和感を感じたけれども、今はもう慣れた。逆に今飛花が普通のペースで喋ったら、もったり感が強調されてイラついてしまうかもしれない。
「驚くも何もこの現実はゲームじゃないよ」
 飛花の話を聞いていると自分の喋り口が遅いような錯覚を抱いてしまい、灯人も若干早口になる。
「頭の巡りが遅いな。いつもの僕の思考実験だよ」
 飛花の自称は『僕』だ。灯人も自分を指す時には『僕』を使うので、それを聞くと何となく灯人は飛花に同性と話しているような錯覚を抱いてしまう。実際、飛花のボサボサ頭と厚いメガネ、制服のラフな着こなし、低くくぐもった声の響きは、彼女をどちらかと言えば女らしくというより男らしく見せている。
「いつもの思考実験って言われてもな……」
 飛花の思考実験はいつも独特な前提の建て方をするので、彼女以外の人間にはすぐには理解しがたいのだ。
「つまり、この世界がゲームだったとして果たして君はそれに気付く事が出来るのか? と僕は問い掛けたかったんだよ」
 自分も話しながら思考を整理しているじゃないか、頭の巡りが悪いとか言いやがってと灯人は若干ムカつくけれど、これくらいで一々腹を立てていたら飛花の相手なんてしていられない。
「この世界がゲームだったら、っていう前提に基づく妄想ごっこって事か」
「そう」
「いやでも言葉を繰り返す事になるけれど、現実とゲームはあまりにも違うからその前提には無理がないかな?」
「こちらも言葉を繰り返すけれど、そもそもこの世界がゲームだったとしたらその事に僕らは気付けるのか?」
「だからどういう意味?」
「つまり、ゲーム……という言葉だから分かりづらいのかな。この世界が人間以上の存在が作った、一種の仮想現実だったとして、その中のキャラクターに過ぎない僕らはその事に気付く事が出来ないんじゃないか、って意味」
「ふうん……」
 飛花がゲームと言うから灯人も多少混乱してしまったが、なるほどそういう話か。今現在の最新のゲーム技術と言えば、まるで飛び出したかのように見える3D、メガネに映像を映し出す事でリアルな体験を演出するVR、現実と重ね合わせる事でまるでヴァーチャルな存在が実際にそこにいるかのように描写するAR等があるが、いずれも現実と代替出来るレベルにまでは達していない。
 しかし人類よりも遥か高みの存在がいると仮定する類の文脈なら、なるほど確かにこの現実も何者かが創ったかもしれない事は否定出来ないだろう。それは悪魔がいないと証明する事は不可能である、という悪魔の証明に近い感じではあるけれど。
 例えば宗教における世界創造等は、分かりやすく『人間以上の何者か』、つまり神が世界を創ったという物語と言える。まあその物語を現実と捉えるかは別として、今回は思考実験な訳だし。
「うーん。気付く事は出来ない、かな」
「どうして灯人はそう思うんだい?」
「想定と気付きは違うよね、って話。例えば僕達だって色々想定は出来るでしょ? つまり想像や妄想を膨らませる事は出来る。今日世界が滅亡するかもなーとか、ある日僕の妹が増殖しちゃったらどうしようとか」
「後者は例としては相応しくないかな」
 灯人は飛花のツッコミを無視して続ける。
「だから、飛花が言うように僕らがゲームの住人であったとして、『この世界はゲームなんじゃないか?』と想定する事は出来るよね。でもそれって、それが本当に真実だと確信したレベルの気付きだと言える? 例えば人に『実はこの世界ってゲームなんですよ、最近知りました』って言ったところで頭を疑われるのがオチの荒唐無稽な発言としか思われない。つまり有象無象のオカルトと同一レベルの発想としてしか扱われないんだ。この世界がゲームだという証拠でも見つけない以上、その説はあくまで突飛な想像でしかない。そもそもそれが気付きになる前に、本人がまず自分の発想を信じられない。他人が否定する前に自分で否定して、『何考えてるんだろう、僕』で終了すると思うんだ」
「……確かにね」
「何だよ飛花。それじゃあ君の方はどうなんだ? ゲームとしての世界にいる人間が、そこにいながらにしてそこがゲームだと気付く事は可能だとでも言うの?」
「僕も気付くのは無理だと思うよ。僕の思考実験は、むしろそこから始まるとも言えるね」
「どういう事?」
「つまり、『この世界はゲームである/しかし、人間はそれに気付く事が出来ない』というのが両立したと仮定した場合、人間って実は物凄く危うい位置にいるんじゃないかって」
「……うん?」
「人間はこの現実を我が物顔で歩いてこの世界の事を大体分かった気になっているけれど、例えばオンラインゲームのキャラクターが自分を動かしているプログラムというルールを認識出来ないように、この世界を本質的に動かしている真実のルールを把握出来ていないとしたら?」
「それは確かに怖い、かもな……」
 それは実質的に、世界が明日どうなるのか全く分からないという事に繋がるからだ。常識で計れると思っていた世界が、ある日唐突に別物に置き換わっていても、どうする事も出来ないという事なのだから。
「人間が今価値を置いている社会生活という物、しかしそれとは全く別の軸、別の意図、別の意志がこの世界に働いていた場合――僕達の生活はそれこそ文字通り、『思ってもみなかった所』から揺るがされてしまうのかもしれないね」
「ゾッとしない話だね。……それにしても飛花、一体どうして君はそんな事を考えたりしたんだ」
「それは――」
 飛花は一度言葉を切って、視線を宙に投げた。
「僕は人間という物があまり好きではないからかもしれないね。僕は今ある秩序や、決まり事、どうしようもなく思える法則性みたいな物が、根本から崩れてしまうような事態を心の底では求めているのかもしれない」
 灯人はその発言から飛花の歪さを感じた。灯人は逆に今ある生活がずっと続けばいいと思う。異様な妄想は頭の中に留めておくのが一番だ。灯人には、鳴希と共に居られる平穏があればそれでいい。
 逆に言えば飛花は今の現実に満足してはいないのだろう。思考実験なんて言っていたけれど、本質的にはその発想は『今日世界が滅んだら』みたいな他愛ないものと大差ない。飛花は何故そんな事を延々と考えていたのだろうか。それを灯人が考える機会は訪れなかった。

 灯人が家に帰ると、

 家に帰ると、壁を厚いバターのように覆うそれが。そして、妹の鳴希は。赤。白。赤赤赤赤赤赤赤赤赤白。比率は圧倒的に赤が多いのに、しかし灯人には取り分け白が怖い。というより意味が分からなかった。意味が分かる訳がなかった。これが現実である筈がない。恐怖が込み上げる。そして、深い絶望が灯人を満たす。しかし意味の分からない物に恐怖や絶望を覚えるのもおかしな話ではないか? 目を瞑る。立って居られない。灯人は蹲る。ひたすらに気分が悪かった。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。

 きっと、これは、

 夢だ。

 灯人が家に帰ると、一瞬の目眩を感じ、彼は有りもしない情景を見た気がした。しかし、すぐその事を忘れてしまった。家は何故か真っ暗だった。帰った時刻は夕方なのに、どうしてだか異様に暗い。暗いリビングには鳴希が蹲っていた。それは鳴希というよりは得体の知れない小動物のようでもあったが、しかしそれは鳴希だった。灯人はそう信じる。淀んだ暗い家に今日は両親は帰らず、灯人は何か料理を作って、鳴希と一緒に食べた。食べた筈だ。食べたと思う。一向に何を作って何を食べたのか思い出せなかったが、しかし灯人は鳴希と一緒に、何か、何かを食べたんだと思う。何を食べたんだろう?
 一日は終わった。

---淀んだ洪水---

 出来れば一生目を開けないでいたかった。それくらい灯人には、鳴希に朝、キスされないというのが衝撃的だった。
 目を瞑ったまま、灯人は鳴希が訪れない理由を必死に考えていた。やはり、一番の問題だと思われるのは昨日キスされている時に鳴希と目が合ってしまった失態だ。そういえば昨日帰宅した後、鳴希とそのキス案件について兄妹会議を開くのを忘れた。失敗した……。
 結局、いつまで経っても妹は訪れないし、代わりに母親が灯人を起こしに来る気配もなかった。
 何だか全てに見放されたような気分になりながら、灯人は諦めて目を開ける。
 枕元のスマホを見ると、八時を過ぎていた。スマホに表示される日付は十月十五日で、灯人は混乱した。灯人が認識している上での『昨日』は十月十二日だ。二日程、日付が飛んでいる。十二日は金曜日だったので、土日が丸々消し飛んだみたいな感覚だ。今日は月曜日。高校に行かなければならない。一体何がどうなっているのかと、灯人はベッドを抜け出した。
 灯人はまず自室と同じく二階にある、鳴希の部屋を訪れた。ノーノックで開ける前に、扉が半開きになっている事に気付く。鳴希はいなかった。
 几帳面な鳴希には珍しく、ベッドは起き上がった時のままにめくれ上がっている。
 何か異常はないか、部屋を注視していると、床に何らかの液体の痕跡を見つけた。痕跡はベッドから鳴希の部屋の外へと続いている。それは鳴希自身の身体から垂れ落ち、引きずられたような印象を受ける。
 灯人はしゃがみ込んでその液体を指で掬ってみた。液体は粘性があり糸を引く。
 そのまま灯人は液体を口に含む。粘っこくて甘ったるい味がした。
 灯人が知らない間に、鳴希は謎の粘液を垂れ流す妹になったのだろうか?
 最早、普通に鳴希が朝、キスをしてくれなかったという展開よりは、妹がどうしようもない程に変質してしまったという事の方が灯人には納得出来そうだった。
 無気力になりながらも、灯人は惰性で高校に向かう。
 灯人は通学中、誰ともすれ違わなかった。彼と同じように通学、あるいは通勤している人間と。そして、朝の慌ただしい時間帯なのに車の一台すら通っていない事を、灯人は取るに足らない事として扱った。
 灯人はやがて高校に辿り着き、誰もいない玄関を通り過ぎ、自分の在籍する教室である一年B組の教室の中に入った。
 教室の壁はあり得ない程の量の赤の油絵の具で塗り固められている。
 それを見た瞬間に違和感があった。あり得ない物を見ているというか、現実との齟齬が許せないというか……。
 頭痛がする。こんな現実はあり得ないと思う。世界に虫食い穴が開いているのを発見したかのように、自分の見ている景色に頼りなさを感じる。
 教室の中央に、紐が垂れ下がっていた。何もない天井からそのまま吊るされているのだけれど、灯人にはそれが蛍光灯の明るさを調節する紐のように見えている。
 頭痛が酷くなった。
 紐に近付くのが怖いのだけれど、それでもどうしても紐に近付かずにはいられれない、そんな飛んで火に入る夏の虫のような禁忌に惹かれる感情のまま、灯人はフラフラと教室の中央へと向かって歩み出していく。
 まるで数キロ全力疾走してきたかのように、灯人の呼吸は乱れ、足取りも覚束なかった。
 そして縋り付くかのように、その紐を手にとって倒れ込むように下へ引いた。

 実際に照明を落としたように、

 世界そのものが消灯した。

 灯人はけたたましいスマートフォンのアラームで叩き起こされた。
 灯人は寝起きが悪い。意識が覚醒した後もずっと色々な事が頭を駆け巡って、なかなか起き上がる事が出来ないのだ。そうしている時、灯人は何かを待っているような気分になる。
 しかし何を待っていると言うのだ? 眠っている時に何かを待っているだなんて、王子様のキスを待っているお姫様でもあるまいに。
 灯人は寝起き後の気怠さにパチパチと瞬きし、髪をグシャグシャ掻き上げるとベッドから降りた。
 分かっていた事だけれど、さっきまで見ていたのは夢だったようだ。基本はこの現実と同じように見せかけてはいたが、しかし細部が異なっている荒唐無稽な夢だった。
 そもそもいつもの朝の始まりから違い過ぎていたし。
 スマートフォンの時計を確認すると、今日は九月二十一日だった。しかしそんな事はカレンダーと関係のない生活をしている灯人にはどうでもいいことだった。
 灯人は自室を出て鳴希の部屋へと向かう。ノックせずにドアを開ける。ノブを回す時とドアを引き開く時、音を立てないように気を遣う。
 見えたベッドの上には、鳴希が(つまり灯人にとっての天使が)すやすやと寝息を立てていた。
 灯人はいつも鳴希が目が覚めないように気を付けているのだけれど、どうも鳴希は灯人が近付く頃には既に目を覚ましているようだった。
 鳴希の顎を持ちいい感じに顔をこちらに向けると、灯人はその唇に唇を重ねた。
 舌を入れた。
 鳴希もそれにノータイムで応じた。
 ほら。やっぱり眠っていたのなら、この反応の早さはおかしい。
 一時、鳴希の唾液を味わってから口を離す。
 いつもは『鳴希の唾液は僕好みの味わいだなあ』としか思わない妹狂いの灯人ではあったのだけれど、今日の唾液は一味違う気がした。
 端的に言って甘ったるい。イメージとしては花弁が腐り落ちたような感じの、少し病んだ甘さを伴った味だ。
 眠る前に飴でも食べたのかな? と灯人はそれほど気にする事もない。
 口を離すと、たらと口から口へと糸が引いた。その唾液もいつもより粘性を持っているように見える。
「お兄ちゃん、朝からご挨拶だね~。実の妹の唇にさ」
「朝だからこその挨拶だよ。そして実の兄妹以上に親密な間柄が存在すると思っているの?」
「存在しないけどね」
「だったらいいじゃん」
 えへへ~、と笑う鳴希の髪をクシャクシャに掻き回す。やめてよ~、という甘ったるい声を聞きながら灯人は鳴希の手を引いてベッドから降ろした。
 二人で階下の居間へと向かう。
 その時に、鳴希が左足を引きずっているのが気になって、
「どうしたの?」
 と聞いてみるも、
「どうもしないよ?」
 とニッコリ笑われてしまったので、灯人は今日も鳴希は可愛いなぁ、と思考停止してしまった。
 居間には当然のように無人で、朝食の用意がしてあった。
 灯人はマリーセレスト号さながらの人間消失の感のある、今もほかほかと湯気を立てるその料理達に一切の違和感を覚えなかった。階下に降りれば、誰が作ったのかも分からない料理がいつでも湯気を立てている。それが灯人にとっての朝だった。
 灯人にとって一番大事なのは鳴希一人だけだ。灯人は随分前から鳴希と二人暮らししている。初めから欠け落ちていたように、両親の存在が彼の頭に上る事は一瞬もない。
 さて朝食だ。
 食卓に座った二人は、それぞれ思い思いにゆったりと朝食に箸を伸ばす。
 灯人が見ると、鳴希はサラダを食べているところだった。俯くようにサラダの器を見下ろす鳴希の顎から、トロトロと何かが注がれている。その液体は主に灰色で、そこに強烈な赤が混ざり込むような色をしていた。鳴希はその液体をたらたらとサラダに掛け終える。そして、サラダと液体を和えてから口に運び始めた。
 改めて見てみれば、鳴希の眼球がある筈の場所は真っ黒な眼窩として欠落していた。そこから鳴希は灰色と赤色の混ざった液体を今も垂れ流してその服を濡らしている。液体は強烈な染色効果を発揮し、彼女の着ている服を塗り替えていく。
「…………」
 灯人はそんな鳴希の様子を首を傾げながら見守っていた。
 いつの間に彼の可愛い妹は両目の穴から謎の液体を垂れ流す存在になってしまったのだろうか。理由にまるで心当たりがない。
 灯人はその事に対して、自分の心がそれほど揺れない事に驚いた。それはどんな化け物になっても鳴希は鳴希だ、という愛ゆえなんだろうか。それとも唐突な変異に心が追い付いていないんだろうか。
 灯人はあり得ない筈なのに、それが無関心のゆえなのではないか、とちょっと思ってしまった。
 それでも妹が謎の存在になってしまった事に全く動揺しないというのは不可能だったらしい。灯人は食卓の席を立つと台所に移動し、ガラスのコップに水道から水を注いだ。水はくすんだ赤色をしていた。
「……なるほど。そう来たか」
 水道水が赤色か。これは明日は黄色、明後日は青色と信号を再現してくれるのかもしれない。それとも明日は黒で、ルージュとノワールみたいな感じになるんだろうか?
 灯人は水道水をシンクに捨てた。
 そこから鳴希を見ると、彼女は相変わらずもったりとした動作で、サラダを口元に運んでいた。
 目から垂れ落ちる液体は、もう鳴希の着ている服を上も下も関係なく止めどなく染め上げているように見える。
 妹に飲ませるのは、赤い水よりは透明な水の方が望ましいのではないだろうか。
 灯人はコンビニにミネラルウォーターを買いに行く事にした。
 ……勿論、今の鳴希がどちらの水を好むのかはもう灯人には分からなかったけれど。

 妹の鳴希との生活だけで世界が完結してしまった灯人は、学校にもロクに通わずに引き篭もっていた。だからこれは久し振りの外出になる。
 久し振りの外界だったが、しかし灯人にとって特に何が変わるでもなかった。
 空の色が青ではなく赤だったり、道行く人がグジュグジュの肉塊にしか見えなかったりしたけれど、しかしそれはコンビニに行くという灯人の目的を特に妨げなかった。だったら別にどうでも良い事じゃないか。
 コンビニに入ると、これまでの不穏な空気が嘘だったかのように普通のコンビニだった。
 まるで場違いなデータを挿入されたゲームのバグのような違和感がある。
 コンビニの中から見ると、赤かった筈の空も青かった。客も店員も肉塊ではなくて、肌が肌色のただの人間に見える。
 灯人は買い置きとして二リットルのミネラルウォーターのペットボトルを三本、それとたまにはジャンクな物を食べたくなって、カップラーメンやポテトチップスをいくつかカゴに放り込んだ。
 さて会計しようという段になって、灯人は自分が現金の類いを一切持っていないという事に気が付いた。もう既にレジ前に来てしまっているし、後ろを軽く振り返ると軽く列が出来ていた。
「お会計、千百三十五円になります」
 若い男性の店員が愛想もなく告げてくる。
 やむを得まい、と灯人はジーパンのポケットに入っている錆び付いた小さなナイフを取り出した。レジの商品を置くスペースを台として利用し、自分の左手の人差し指を切断した。それは斬り落とすというよりは削げ落とすという具合になってしまった。何しろほとんど切れ味というものを喪失したナイフなのだ。痛みは鈍く、会計を焦る今の灯人には特に気にならない。
「支払いはこの人差し指でお願いします」
「ええっと……」
 男性店員は嫌そうに灯人の人差し指を確認する。
「この指はお会計金額分の価値を残念ながら有していないと思うんですが」
 これだから嫌なんだ、常識を知らない外の連中は。灯人だって好きでこんな指に生まれた訳ではないのに。
 灯人はイライラしながら後ろに並んでいる列を親指で指し示す。
「仕方ないですね……今回だけですよ?」
 そんな風に言ってくる店員に灯人は軽く殺意を抱き、舌打ちをしてからビニール袋に入った商品を受け取った。
 コンビニの自動ドアを通り抜ける。
「全く世も末だね……」
 人差し指での支払いに文句を付けられるとは、流石の灯人も予想していなかった。
 外に出てみると様子が少し変わっていた。
 一歩踏み出すと、バシャと足元で水音が響いた。
 粘性を持った重い触感の液体がふくらはぎの半分くらいまで溜まっていた。
 その液体は灰色を主体に赤を混ぜたような色合いをしており、鳴希の眼窩から垂れ落ちた液体と酷似していた。やはり強い染色性を持っているその液体は、あっという間に灯人の靴とジーパンを灰色と赤に染めた。
 足元に溜まる液体に不吉な予感がすると同時に、酷く歩きづらくなった。
 空を見上げると赤い空からひらひらと何本もの包帯のような白い布が垂らされており、その布に灯人は赤い空以上の不吉さを感じた。あまり目に入れたくない光景だ。
 仕方ないので地面だけを見るように俯いて、バシャバシャと足元の水を蹴り散らすように歩いて行く。
 家に着く頃にはやたらと疲れていた。
 玄関を抜け居間に辿り着くと、食卓の鳴希が座っていた筈の椅子に何やら粘ついた生物が蠢いていた。
 鳴希がその身体を全てあの灰色と赤の入り混じった液体に置き換えたようだ。
 鳴希スライムか……灯人は自分の行動が全て徒労だったような気がしてきた。でもせっかくミネラルウォーターを買って来たのだからと、グラスに一杯それを注ぐと鳴希スライムに掛けてみた。
 鳴希スライムは嬉しそうに(?)うごうごと蠢いていた。
 灯人は溜息を吐いてから、鳴希スライムの向かいの席に着いた。
 相変わらず蠢いている鳴希スライムを頬杖を突きながら眺める。
 その単調な動きを見ていると、まるで催眠術を掛けられたかのように意識が朦朧としてきた。
 灯人の削り落とした左手の人差し指から何かがトロトロと流れ出していたけれど、彼はそれを特に意識しなかった。
 同時に足を濡らす粘液から何かが染み込んでくるようだったけれど、灯人はそれでも鳴希スライムを無心に眺め続けた。
 全てが決められた事だったかのように事態は進行し、時間は溶け落ちたかのように過ぎ去った。
 そして差し込む夕焼けの中、灯人は自分が今や鳴希と同じように粘液とその全存在を置き換えている事に気付いた。
 かつて灯人だった粘液と鳴希だった粘液は、それが必然であるかのように近付き混じり合う。
 二人だった何かは今、母親の胎内にいるような全てが完全に満たされた安心感を感じていた。
 しかしそれは長くは続かない。
 粘液へと姿を変えたのは彼らだけではないからだ。
 それは全人類にまで及んでいる変質だからだ。
 時間の感覚が消失したまま、やがて全人類はひと繋がりの液体として完成した。
 最早そこには何一つの区別なく、どこからどこまでが二人だったのかは今や判然としない。
 それでも灯人という残滓は最後に鳴希に呼び掛ける。
「鳴希。好きだよ」
 その声は響くこともなく粘液に吸収されて消える。
 灯人はずっと鳴希と二人きりでいられなかった事を残念に思っていた。

|||独り言響く病室|||

 夢を見た後というのは、現在の僕の生活の中で一番心乱れている時間だと断言出来る。
 どれくらい混乱しているかというと、自分が今何処にいるのか分からなくなっているレベル。自分が何をしているのかも分からない状態。
 だけれど、夢を見終えた僕がしている事と言えば大体ワンパターンであるようだ。僕は自分が独り言を呟いている事に、起きてしばらくしてから気付くのだ。
 独り言の内容は見ていた夢の中身らしい。ただ見た夢を、ありのままに垂れ流している。
 僕は自分が益体もない独り言を放っている事に気付いてからも、最後まで夢を語る。
 そうやって全部吐き出してしまわなければ、狂った夢が続く中で自分を保てないのかもしれないし、そうやって終わりまで語る事が一種の儀式のようになっているのかもしれない。
 僕のその夢語りは僕にとってはただの独り言なのだけれど、誰かに話しているつもりなんてないのだけれど、それはそれとして病室には常にナニカがいるようだった。けしてそれは人間ではないと思う。人形か何か、人を模してはいるけれど決して人ではないモノだ。それはいつでも来客用の丸椅子に腰掛けている。
 僕にはそれが意味不明な幾何学図形や理解不能な文字列で包まれた、正体不明のナニカに見える。ぼんやりとしていて、決してその靄の向こうの中身を見通せない。
 そいつは何なんだろうか? もしかしたら、僕が死ぬのを待っているバケモノなのかもしれない。
 そう思ってしまうくらいには、僕はもう自分の頭を信用していなかった。
 バケモノはじっと僕を見つめている。いつだって見つめている。
 しかし、バケモノは僕に好意ではなく敵意を向けているように感じられた。
 図形と文字の黒い繭の向こう側から突き抜けて来る視線は、酷く鋭利なように思うからだ。
 僕の事が嫌いなら、どうして僕の病室にずっといるんだろう?
 見舞いというのは、大切な誰かに対してするものなんじゃないんだろうか?
 病室の中の異質な存在に疑問を抱きながらも、僕は夢という独り言を呟き続ける。
 バケモノはじっと耐えるようにそれを聞いているようにも見える。