日本の教育がいかにうんこかについて | 墜落症候群

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 日本の教育がいかにうんこかについて

 日本の小中高大の一連の教育の流れは、俺からみるとかなりクソに思える。
 そもそも俺自身、教育に人生を救ってもらったと感じた経験がないのだ。
 自分の人生を救うためには、いだきで常識とは違う学びを得たり、オタク文化で気を紛らわしたり、旅に出たりしながら、自分の頭で徹底的に考えるしかなかった。
 小中高大の教育は、自分の頭で考えることをむしろできないようにさせるのではないだろうか。
 あまりにも記憶重視で、押し付けがましい教育体系が、人生でもっとも重要な十代の時期を、不当に奪っているのではないだろうか。

 日本教育の一番の問題点は、あまりにも西洋の学問に寄り過ぎている点にあると思う。
 例えば、俺はあまり歴史が好きではないのだが、全日本人にとって、体制側の理屈によって歪められた、洗脳じみた歴史に意味はあるのだろうか?
 歴史は勝者によって作られるというが、つまりそれは勝った側が自由に真実を歪めてよいという誤謬的精神に基づく。
 つまり、今の戦後教育には、かなりの間違いがあり、歴史においても戦後、『間違っていたのは原爆を落としたクソアメリカではなく、戦争を決めた日本の上層部である』という洗脳、ウォーギルトインフォメーションプログラムの影響が多分に含まれているといっていい。
 勝者という演出を世界的に行っているだけのバカ国家、アメリカは、要するに殺人と演技がうまかったから、世界の勝者というフリができているだけである。
 アメリカの文明的恩恵を受けていることを軽んじてはいけないが(例えばインターネットは偉大な発明だろう)、しかし、あの国家は地球上におけるがん細胞であることも忘れてはならないと思う。

 学校教育の話に戻るけれど、多くの日本人の大人が、『大学までの教育なんて忘れてしまった』と考えているんじゃないだろうか?
 俺も実際、学校の知識を日常的に使う機会はほぼ皆無である。
 では、一体、何のために大学に行くのだろうか?
 22年間も使って、教育を受けるのだろうか?
 その理由は『人生をどぶに捨て、ロボットになるため』である。
 現行の教育は、産業革命後の、人間が誰にでもできるロボット業務をこなせる奴隷を作るための教育になっている。
 高度な教育を与え(つまり高度な洗脳を施し)、無力感を与えた上で、西洋的頭脳明晰な人物を支配する方が、都合がいいからだ。
 西洋的人間というのは、自分だけよければいい、自分だけ儲かればいい、自分の家族だけ幸せならいい、そのためには社会的弱者がつらい思いをしようが一向に構わないという人間である。
 高学歴な人間ほど、人間的な思いやりに欠けるバカが多いと思う。
 これは専門領域への極度の視野狭窄による、俺から見た『統合失調症』に陥るからだろう。
 西洋人には『我々が観測するから宇宙が存在するのだ』というアホがいるらしいが、傲慢極まる。完全に精神病である。
 太陽が存在しなければ、人間はただ一人も生きていけはしない。
 人間にとっての当然の『自然への感謝』を忘れ去ってしまっている。

 ある子がいるとしよう。
 この子は男の子で、子供の頃から家事手伝いをするのが好きだった。
 特に、お母さんの料理の手伝いをすると、ワクワクした。
 色々な食材を使って、色々な料理法を用い、味付けをすると、まったくあたらしい『おいしさ』が現れる。
 それは彼にとってまさに『魔法』だった。
 彼は『魔法使い』に憧れる。
 時が経つにつれ、彼は小学校を進んでいくが、しかしその時間は苦痛だ。
 彼にとっては放課後、家庭科部で料理を作ったり、家で晩御飯を作ったり、または休憩時間中、料理の本を読みふけるのがすごく幸せなのだ。
 学校は息苦しかった。
 なぜ、違う個性を人間を持つ人間が、同じ教室という箱の中に押し込められているのだろう?
 中学生になろうとする時、彼はもう学校には行きたくはなかった。
 この時、中学校に入るのと、料理人の弟子になり、まずは下働きから始めて、料理屋の作法について学ぶこと、どちらが彼にとって有益だろうか?
 答えは見えている。
 料理人の弟子になった方がいいに決まっている。
 彼にとっては数学もサイン・コサイン・タンジェントレベルではなく、四則演算や会計処理が、いずれ店を持つ時には必要な時が来るかもしれない。
 しかし、そんなのはお世話になった料理人が、その時が来ればアドバイスしてくれるはずだ。
 いかに師匠を見つけ、それに従事し、料理の勘を学び、食材とお客に対する感謝を磨くかが彼には重要なはずだ。

 小学校卒業というと、12、13か。ここから進学・進学・進学で、22才になる頃には大学卒業か。
 大学を卒業した彼は、まあ、そこら辺にいる料理が趣味のサラリーマン志望だろう。
 しかし、12才から弟子入りした彼はどうなっているだろう?
 12才から1日10時間料理の修業をしたとして、一年で3650時間、十年で36500時間修行した彼なら、料理については完全に『向かうところ敵なし』になっているんじゃないだろうか?
 その分野での天才的能力を発現する条件として『10000時間、その分野に使う』という『一万時間理論』があるが、彼はもう既にその3.65倍修行している。
 ちょっとした神クラスだろう。
 そこら辺にいる大学生と、料理の神。
 彼を分け隔てたのは、学校教育を順当に受けたか? それとも自分の好きなことに時間をたっぷり使ったか? その差異である。

 人間というのはなんらかの強みを生まれつき持っているはずだ。
 俺ならば文章執筆や、問題解決である。
 大事なのはその才能に対して、適切な時間投資及び、施設・師匠の発掘を行うかどうかという差異である。
 一番大事なのは時間だとも思う。
 22才までの重要な時期を、何の変哲もないサラリーマンになるために使ってしまってよいのかー?
 今、日本では4割が非正規雇用といわれるが、これはこうも考えられる。
 上の給料の方から人気で職の奪い合いが起こるとすれば、上流企業のポストは完全に埋められているはずだ。
 つまりさ、椅子取りゲームの椅子は元々足りず、どんなに才能があろうが、4割は高校生でもできるバイトをするしかない状況なのだ!
 だったら、自分で仕事が作れるくらい、自分の好きなことを突き詰めた方が、楽しいし、人生幸せじゃない?