ロキレパ結構書いた。 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 ロキレパ。

 主人公とヒロインの買い物シーンから始めてもいいかもしれない。
 
 俺たちは金というものを持て余している。大体、金の使い道なんていうのはないに等しい。ちょっと街をぶらりと歩いたり、気怠く誰かとお喋りをしているだけで、時間なんて簡単に潰れてしまうではないか。金を使うというのは、俺らにとってあまり価値のない行為だった。しかし、たまには価値のない行為をしてみるのも悪くはないだろう。
 俺と彼女は薄汚れたマーケットに来ていた。以前は綺麗なスーパーマーケットとしての体裁を保っていたであろうそこも、今では天井を襤褸切れで補修しているようなありさまだ。
 その日は小雨が降っていて、濡れるのも悪くないと思ったが、彼女がいつも着ている透明なレインコートに倣って、俺も雨具を身に付けていた。
 マーケットにも雨がこぼれてきていた。誰もそのことを気にしない。商品が濡れてしまう、だなんて焦る人間はいないのだ。そもそも商品が盗まれたところで、どれだけの人間が感情を動かすのだろう? この世界はもう病に冒されている。誰も気付かない内に、目をそらし続けている内に、そうなってしまったのだ。
 その象徴的な出来事として起こったのがあるハイスクールで起きた、一クラスを丸々虐殺する青年というセンセーショナル、俗に言う『悪魔憑き』事件である。
 それを切っ掛けとするように、人々は気付き始めた。若者から広がり、今、まさに社会を覆おうとする一つの症状に。
 『悪魔憑き』事件が何らかの直接的な起因だったのか、それとも、事件を切っ掛けに今まで見えていなかったものが顕在化しただけなのか、それはわからない。卵と鶏、どちらが先か並に、どうでもいい疑問だと言える。
 人々はその症状を端的に『もう一人の自分』と読んだ。自分ではない自分への書き換え『エンコード』、未知の自分との契約『エンゲージ』、呼び名は多種多様だが、取りあえずシンプルに響くのは『もう一人の自分』だろう。
 過去に多重人格、解離性同一性障害と呼ばれる精神疾患が存在した。
 現実の自分があまりに苦しかったり、または境遇が恵まれなかったりする場合、罹患者は自分とは別の人格にその重荷を押し付けることにより、何とかやり過ごして生きていく。
 しかし、『もう一人の自分』は一般的な多重人格とは異なり、別人格を作ることにより現実逃避することではなく、「自分にこんな思いをさせる世界の方こそ間違っているのだ」と、積極的な世界の変革を迫る。
 『悪魔憑き』事件の犯人の精神分析をした学者がいた。
 その分析が正しいのかどうかは俺には判断ができないが、彼はどうやら「いじめにより殺されるくらいなら周囲を殺してやる」と囁きかける自分自身を、自分とはまったく別の他者、ある種の幻覚として認識していたらしいのである。
 そして、その幻覚こそが自分であるということに気付いてしまった瞬間、皆殺しが起こったというのだ。
 その学者の分析はあるいは妄想だと言えるかもしれない。殺しをした犯人にしか、本当のことはわからない。しかし、その学者というのがクラス惨殺の唯一の生き残り、重い病気により、やむなく事件のその日代理を立てることになったクラス担任が、事件後狂ったように精神病理学に傾倒し、弾き出した結論だと言うのだから、論理的な信頼性はともかくとしてある種の鬼気迫る説得感を覚えるのは確かだ。
 マーケットをぶらりぶらりと歩く俺はそんなことを別に考えていた訳ではない。
 隣を歩くコイツは、一体どんな構造をしているのだろうと考えながら、うまそうな物を適当に物色していただけである。
「ふーん。『わたし』はコロッケカレーが食べたいのかあ。随分とお子様だねえ」
 何故コイツは自分の感じていることについて、他人事的な意見を述べるのか、と誰でも思うだろう。
 しかし、俺は彼女にこう返した。「お子様で悪かったな」、と。
 彼女――野高心音は『もう一人の自分』を持つ若者の中でも、特異な精神構造をしている。
 彼女にとっての『もう一人の自分』は、俺なのだ。彼女は自分の一人格として、俺を捉えている。つまり彼女の言う『わたし』は俺を指す。自分ではない心を許した他者を、自分の内面の一部として取り入れるその精神の在り方。
 音の上では自称の『私』と『わたし』は区別が付かないからややこしいし、まだ心を読み取られることに慣れないからドキッとすることもあるだが――そういうことなのだ。『もう一人の自分』の特徴は世界に対する変革の意志だけではない。自分の思う通りに世界の方を歪める力、ESPを持っていることも大きな特徴だ。
 心音は俺の考えていることを、テレパスで読み取り、まるで自分で考えたことのように扱うことができる。
 ちなみに俺もESP持ちの『もう一人の自分』罹患者だが、こっちはあまり自慢できるものではないと俺は考えているので、その説明は後回しにしよう。

 マーケットに並ぶ物は三分の一くらいは腐っているし、金を払うかどうかも気分次第だ。レトルトパウチのカレーを買うかどうか、俺は迷いつつ、
「心音、お前は欲しいものとかないのかよ?」
「私はね、特にないかな~。『わたし』が選んでくれればいいじゃん。私の為に働いてよ『わたし』」
 最高に分かりにくいです。たまにわざとやってるんじゃないかと疑いたくなる。
 どうしてこんな変な女と行動を共にするようになったのか。それは二ヶ月くらい前の土砂降りの雨の日に遡る――。

 高校が終わって、下校途中に雨が降り出した。それは次第にボツボツと大粒の質量を持ったスコールと化し、俺は「うおおお!」とか叫びつつ鞄を頭の上で盾にして家まで走ろうかと一瞬思ったものの、ちょっと家までの十五分くらいの道のりを考えると途中で心が折れそうに感じた。
 なので工場のシャッターが降りた軒先に身体を滑り込ませると、視界を埋め尽くす雨をぼうっと眺めていたのである。もう既にじっとりと身体を濡らして、袖から垂れ落ちる水分が鬱陶しかったものの、しばらくして、俺はその不快さを忘れた。
 初めから視界に入っていたのだと思う。しかし、俺も含めて興味がないものには何一つ価値がないとするのが今時の若者としての心意気というものだ。彼女のことも俺は最初、まるで気にも止めてなかったはずだ。
 しかし、何故か気になり始めた。
 まずファッション。ごく短い袖のシャツにホットパンツという露出の高い格好の上に、何故か透明な素材のレインコートを被っている。いや、雨が降っているのだから、雨具を着用するのは別におかしいことではない。何となく薄着に透明な雨具の着用が、何とも言えない不思議な可愛さを生み出しているな、というのは俺も男として思ったところはある。しかし、もっと気になったには、彼女が雨具を付けているにも関わらず、フードを付けていなかった点だ。そのせいで、びちゃびちゃに髪は頭に張り付いていた。
 彼女は丁度、道路と歩道を敷居する、倒れかけた柵の上で危うげなバランスを保ち、腰掛けていたのだけれど、もう雨のことなんてまるで彼女は気にしていないように見えた。
 そして、凄まじい雨音にかき消されるのも気にせずに彼女は歌を歌っていた。
 その感性が気に入った。
 自分以外の人間には興味はないが、しかし、面白いと思ったものには触れたくなる。やはり、それも俺たちの世代の感受性というものなのだ。
 俺は雨が止むのを待たずに、彼女に近付くと強引に手を引っ張って、工場の軒下に引き入れた。
「……何か用ですか。私に何の用があるんですか」
「いや、ちょっと話をしてみたいと思って」
「へえ……。基本的にどうでもいい人は人間として認識しないようにしているのですが、あなたは強引ですね」
「まあね。君のことが気になったし」
「ナンパですか?」
「さあ?」
「ナンパではないと?」
「自分にもわからない行動を起こしてしまうのは、人間には珍しくないことだ」
「それはあなた限定の話ではないのですか……変態ですか」
「君ってさ、『もう一人の自分』持ちだろ」
 彼女が口を開きかけた。今の時代は三人に一人は『もう一人の自分』に罹患している。珍しくも何ともないと言いたいのだろう。
 俺はそこで『許されざる劫火』を目の前に放った。落ちてきた雨粒が消失する。まるでフライパンの上で油と水を混ぜた時のような音。大量の雨粒は蒸気となり、二人の姿を完全に覆い尽くす。雨粒は消失したのではなく、焼失した――圧倒的な火力による発火現象――行き過ぎたパイロキネシスこそが俺の能力だった。
「ふうん、なるほどなるほど。これほどの力を持つに至るということは、何か凄まじい欲求があったのでしょうね。そして、初対面の私にそれを見せる……と。
 ふうんそうですかそうですか、確かに面白いですね、あなた」
 彼女はにっこりと微笑んで、
(いいえ、『わたし』? これから仲良くしましょうね?)
 その声が自分の頭の中から響いてきた時には、俺も一瞬動揺した。

 それから時を待たずして判明することになるのだが、野高心音というこの少女の初めの性格は完全に仮面だった。彼女は誰よりもあけすけだ。『わたし』として認定してしまった相手には。あけすけ過ぎて困るのだが。まるで自分の中で喋る言葉と同じレベルで俺に話しかけてくる。肌触りの良い下着について言及された時には流石に困惑した。俺はボクサーブリーフとトランクスの履き心地の違いについて、話を合わせてやればよかったとでも言うのだろうか?
 しかし、彼女が初めに言ったことは真実でもあった。本当に彼女は人間を認識しない――自らも他者もお互いに透明人間であるかのように振る舞い、仮に肩と肩がぶつかっても本当に何もなかったように平然と素通りするだろう。彼女の世界は、彼女自身と自分と認識した他者だけで完全に構成されている。どう生活しているのかまったく想像が付かなかった。家族とはどう過ごしているのだろう? 俺だって家族なんかよりも自分の方が大事だけれど、コイツは俺しか『わたし』としてどうやら認定していないようなのだ。どうやったら、完全な透明人間と暮らしていくことができるのだろうか?
 心音とは外で会うことが多く(この呼名もすっかり定着してしまった。彼女は呼び捨てどころか俺を自分扱いしてくるのだから、こちらも気を遣うのがバカらしくなる、というか、気を遣うという言葉の意味が、喪われてしまうようなものなのだった)、彼女の家庭環境については俺もまだ踏み込んだことがない。
 そんな訳で俺の世界は自分と高校での他愛ない話しをする薄い関係の男子と、図らずも切り離しにくい繋がりと化してしまった心音で構成されていたと言える。
 しかし、結局、「子供こども」言われるのが腹が立ったので、俺は自棄になって有り金全部で甘口カレーを買うという暴挙に出てしまった。
 久しぶりに家に大量の食材があるということをどこで把握されたのか、もしかしたら、帰り道やマーケットで目撃され、尾けられただけかもしれないのだが、俺の世界にもう一人の少女が入り込んでくるなんてことは、当然俺は予想していなかった。