今日ふと思い出しました。


街で見かける証明写真を撮るマシン

私もこれまで何度も使用して来ました。

私はあれが恥ずかしくってたまりません。


だって

あるのは大体が駅や街中の

人通りが多い場所

私は人を横目に小さな箱の中で

椅子をグルグル回して高さを合わせて

それでもずれるから少し猫背になって

そんな姿勢をじっと我慢しながら

自分でも驚くほどの真面目顔を作った状態で

一ミリも動かないようにモニターに映るその姿を

自分で凝視しながら決して目を閉じないように

納得が行くまで何度も何度も自分撮り。


私はこの行為は

露出プレイに該当すると思います。

カーテンの下から足だけが見えているのが

悩ましげで余計に猥褻です。

どうか私の後ろに並ばないでください。

私はいま、街中でこんな恥ずかしい姿を

パシャパシャ撮っているんです…


日本で働くほぼ全ての老若男女は

そんな羞恥プレイを経ないと

履歴書の時点でつっ返されてしまいます。

みんな、恥ずかしいけど頑張ろうね。
溜まってるので連投ですよ。

今回はみんなが一生かけて欲するモノの話

「いい」の話


人は出来事に対して必ず感応し、判断する。

それがいいのか、いくないのか。

何を当たり前な事をいまさら的な事ですが

よく思い出してみてください。

私もあなたもいつだって、気持ちがいい方を

求めている事を。

紆余曲折を経て、幸せになりたい理由だって

最小公倍数は

それが自分にとっていいからでしょ。

求めるモノ形は違って当然、けれども

それぞれ求めるものは、やっぱり

答えは「よって、気持ちいい」なんです。


あぁ、たくさんお金が欲しいなぁ

あそこの店より安く買うつもりだよ、

あの子と一緒にいたいんだがな、

あそこのうなぎを食べさせてあげたいよ、

来年こそは優勝するぞ、な

借金取りからどうやって逃げるか、

君には本当の自分をわかってほしかった、

だからどうしても君に謝りたくて、

畜生、やってらんねーよ、

かぁさん!酒だよさけー、

生きてるのが辛い、明日死のう、

命に変えてもあの子を守ると決めたから、

あぁ、また不倫しちゃったよ、どうしよう…

もー眠たい。

とか、なんでもかんでも。

いろんな人がいろんな事を思うけど

全ての想いが求めているのは

言葉は変わっても、行動が変わっても

人に恨まれようが、感謝されようが

それが私にとっての気持ちいいだから

求めずにはいられない。


私もあなたも誰にもなり変われないし

内容、趣向、性格、環境は違っても、

どんなに内容や言い方、伝え方が変わっても。

誰かの事を思った行動であってもです。

それが自分にとっての気持ちいいだから

毎日毎日それを求めて彷徨います。

安心、不安、期待、後悔、慈愛、

感じる事が気持ちよくって

考えるのがやめられないんでしょ?



でもね、

そんな事は人に言わない方がいい

普段その答えは無意識に隠れているし、

他の意識との結びつきが強い認識として

形を成している状態を主観で捉えている

そこで「あぁ、気持ちよくなりたいのね」

なんて言ったところで

大抵誤解されるか、怒りを買うのがオチでしょう。

だからこれは禁じ手

それを言われて気持ちいい時だけにしましょうね。



試しに、コミュニケーションを撮る際に

相手も気持ちよくなりたがっているのだと

思って耳を傾けてみて見ると。

普段より、相手の事が理解出来ますよ。
長い間、更新をサボっておりました。

書くこといっぱいあるんですがね、気が向きませんでした。


今日書くのは物事の理。内と外について考えました。

A「あそこに飾ってある絵を見てご覧よ」

B「あら、コタツで二人の男女が向き合って入っているね」

B「テーブルの上には何も刺さってない串が転がっているのかな?」

A「うん、しかし二人とも、とても悲しそうな表情にみえるね」

B「そうか?微笑んでるようにみえるけど…」

A「お団子で喧嘩になっちゃったんじゃないか?」

B「違うよう、きっと貧乏だけど仲良しな二人が一本を分け合って食べたんだよ」


そんな会話をしているところに個展の主催者が近づいて来て、


主「どうですか?素晴らしい絵ですよね、作品名は『おなら』といいまして」

主「コタツでおならをした匂いが上に上がってきて、二人で臭がっているんですよ」

AとB「・・・・そうなんですか…」


あの、何が言いたいかというと

外部からのイメージは個々のもつ感受性によって

認識されるって事です。

それは自分の外側にある全てに当てはまります。

私の小指も、隣人からお団子から宇宙まで、全てに。

上記三名の認識はどれも違うけど

認識で言えば、誰も間違ってはいないのです。

そして本質は正解も不正解もないという訳です。


しかし、私たちが共存生活をしていく上で、正解が必要です。

普段判断する為に使用している事実というものは、

隣人と共存生活をしていくためには共通認識がないと困る為に

決めた共通の価値観です。だから遠い国では価値観が全く異なる

事は当然なのです。生物的に考えれば、大雑把な共通感は

あるだろうし、そもそも人類の大雑把な共通感覚から生まれた

価値観によって今ある事実は生まれたんだろう。


あぁ、前置きが長い。本当に興味があるのはここからです。

さっきの絵を見たニ人は、目という感覚器から絵という共通認識の

情報を受信し、自己のイメージと照らし合わせました。

そして心でどう感じた。だからそう見えた。

実はそれこそが世界なのです。


マトリックスみたいな話ですけど、

自分以外の全ては言い換えれば情報です。

それぞれがもつ個々の価値観が反射して

それぞれが勝手に都合よく創造している情報解釈、

つまりどう心で感じるかを無意識中に行った結果の

産物の中にいます。もちろん自分の肉体もです。

そうだと仮定すると、例えばここで楽しく生きたいなら

全ての情報を楽しく創造したらいいんです。

いつだって私たちは無意識に創造してるんだから。

そしてそれは価値観に捉われてても全く問題ないです。

なぜなら共通認識は意識の表層に過ぎないからです。

つまり「楽しい事」って感覚ですら

大雑把な共通認識でしかないからです。


そして私自身もあなたからみれば情報にすぎない。

私というあなたにとっての情報は思いました。

あなたも私自身も含めた全ての情報を

いかに気持ちよく、都合よく感じて生きるかが

人生を望む形、豊かにする事の全てを担っているのだと。

まだまだ意識が低く、外の情報力にリアリティを

もっていかれてしまいがちですが、

目指すは、ポジティブでもネガティブでもない、究極の

「マイ・インタラクティブ・シュールレアリズムハート」

効能は肉体が滅んでも持続可能です。


しかし仕事の依頼が来ないなぁー。

冬だ、頑張るぞー。