今日、ヤフーニュースを見ていたら横須賀線の歴史の記事に出会いました。私が学生時代に複々線化された頃の話は懐かしく、当時を思い出して大変興味深いものでした。私の学生時代には、東海道線と横須賀線が同じ線路を使っていましたが、複々線化されて通勤時間の混雑がかなり軽減されたのです。

 

長い歴史の中にそのあたりの状況も詳しく書かれていて、《SM分離》など新しい言葉も幾つか知りました。4年ほど前、学生時代に撮った国電の写真をご紹介した時に急行”東海”の話もしているのですが削除して、今回新しく知った情報を少し加えて追加修正し、東京駅の部分だけ抜き出して急遽こちらに掲載します。

 

ところで、当時の東京駅ホームは以下のように使い分けていました。1番線から6番線は国電ホームです。1.2番=中央線、3.4.5.6番=山手線、京浜東北線で、今と同じでしょう。
 
  7.8 番線  《東海道線普通》
  9.10番線  《横須賀線》
12.13番線   《東海道線急行、L特急》
14~19番線 《東海道新幹線》
 
東京駅には11番線のホームがありません。でも線路はあって、写真の真ん中の線が11番線です。
当時は、何でホームに11番が抜けているのか不思議でした。これは貨物専用だったのですね。

 

 

 

 

 

 

       東海道線 急行【東海】     昭和52年9月  東京駅12番線

 

        165系       中央の線路がホームの無い11番線です。

 
〔東京ー静岡〕間を走る急行電車です。この10年ほど前までは80系の準急でした。写真は午前7時15分ごろ出発の車両です。この当時一日4往復していたと記憶しています。この後、午前10時台、午後2時台、午後4時台です。
 
80系の後に153系が投入されました。この当時は165系が多かったと思いますが、まだ153系と165系が両方とも走っていたと思います。
 
これは早朝の東京駅でブルートレインを撮影しているときに撮りました。当時住んでいた高田馬場駅から、明け方一番早い始発の山手線で新宿へ向かい、中央線に乗り換えています。どちらの電車も空いていて、涼しく爽やかでとても気持ちがよかった印象があります。
 
 
 
 
帰郷の際、良く利用していました。缶ビールと駅弁を買い、2時間程度の旅を楽しんでいました。
 
 
 
 

 

学割を使い往復切符を購入しました。料金が770円から900円に値上がりしていて、運賃変更の印もあります。とても賑やかな切符です。現在運賃は2,640円なので大変な値上がりです。

 

 

 

 

この当時は急行料金も安かったのです。間もなく《51年11月》500円に値上がりしました。勿論今は特急になってしまいましたので存在しません。切符についてはいずれまた纏めてみたいと思っています。
 
 
 
 
                東京始発の(下り)普通電車
 
急行”東海”以外にも、153系、165系の静岡、浜松行きの長距離普通電車があり、何度か利用していました。東京駅の7番線、8番線から出発する普通電車です。夕方の普通電車では12両編成に3両が追加されていました。165系の15両編成と言う事です。
 
走行中、私は良く窓を開けていました。子供の頃と一緒で、風を受ける開放感が好きだったのです。下り先頭車から4,5両目がグリーン車で、私は常に3両目を利用しました。下車する富士駅で階段に近かったのです。
 
15両編成では、藤沢や大船近辺の線路のコーナーで窓から顔を出して電車の後方を眺めてみた時、「うわっ!長いなー」 と感動していました。

 

茅ヶ崎駅と辻堂駅では 『ホームが短いため、後ろの三両はドアが開きませんのでご注意ください。お降りのお客様は前の車両をご利用ください』 と車内放送がありました。
 
平塚で切り離していたのでしょう。『次の平塚では、後ろの3両の切り離し作業を行います。平塚より先へお越しのお客様は前の車両へお移りください』と車内放送されていました。切り離しの作業は窓から身を乗り出しても直線のホームでは見えず、一度ホームへ出て眺めたことがあります。

 

 

 
 
 
 
              通勤時間の(上り)普通電車の混雑
 
1977年頃の東京行きは、昔と同じく富士駅を6時頃出発する電車と、5時半頃の電車が2本続いていました。東京付近の通勤時間に当たります。車両はこの165系が使われていました。153系の後継車両です。
 
富士駅 5時半頃発= 東京駅 8時40分着(20分遅れの9時頃に到着)
富士駅 6時10分発=東京駅 9時3分着 (20分遅れ9時25分頃に到着) 
 
(国鉄が分割民営化されてからは静岡、浜松から東京へ乗り換えなしの直通は廃止されています。)
 
もちろんこの2本も子供の頃は80系でした。小学生の頃に153系になります。まだ80形だった時代からずっと、早朝の電車は小田原あたりから混雑が始まりました。
 
大磯を出るとほぼ満杯状態になります。平塚で多くの降車客がありますが、なんとその倍以上の乗車客があります。混雑は横浜まで続きピークとなります。
 
次の川崎は通過するため車内放送で何度も「次の川崎には止まりません」と告げていました。品川で多くの客が降りますが、この時間帯の2扉の2本とも、東京駅到着は殆ど20分遅れの到着でした。
 
2扉の車両は通勤にはほんとに向きません。乗降に時間がかかります。この状態は学生時代も同じでした。ただし、ボックスシートに座っている乗客はゆったりとしたものです。目の前に人が立つ事がないので、満員の寿司詰め状態に影響されずのんびりとしていられます。
 
川崎駅は京浜東北線と横須賀線直通のみ停車させ、東海道本線の電車は全て通過させていたと言う事です。これは、近距離客はなるべく京浜東北線を使ってほしいという意図があったようです。

 

 

                     複々線化

 

丁度学生時代は複々線化の準備中で、大船駅に3メートル近い大きな看板がありました113系の顔が大きく描かれたイラストの真ん中に線が引かれた絵なのですが半分は湘南色、半分はスカ色に塗り分けられていました。
 
それが2本の矢印の下で2つに別けられて、それぞれ単独の色に塗られた113系の顔になっているものでした。片方は湘南色のみ、もう片方はスカ色のみとなっていました。
 
私はパソコンで出来る作業の事をよく知らないので乱暴な画像ですが、可能な限り当時の看板に近い雰囲気を合成してみました。当時この看板をご覧になっていた方にはピンとくるでしょうか。
 
 
 
 
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こんなイメージです。看板には細密なイラストで描かれていましたが、絵が苦手なので当時私が撮影していた写真の中からイメージが合うようにしています。イラストはシールドビームではなくデカ目でした。
 
 
それまで一緒の線路を使っていた、東海道線と横須賀線の分離を表現しているのでしょう。片方が従来の貨物船を利用することになったと思います。複々線後の車両は、153系は引退していて2本とも165系だったと思いますが、到着は定刻だし横浜での恐ろしいような混雑はなくなりました。
 
分離は、平塚~小田原間には新たに貨物線を新設し、旧貨物線を利用して複々線化、また鶴見駅付近を新たに複々線化。戸塚~鶴見間にも貨物線を新設して貨物列車を迂回させたようです。貨物線には横須賀線を通したようです。各地区の詳しい状況を今回初めて知りました。
 
横須賀線の列車番号の末尾がS、東海道本線の列車番号の末尾がMだったため、東海道本線と横須賀線の分離運転を略称《SM分離》と呼ぶそうです。新しい知識です。
 
 
 

 

 
そう言えば1980年頃、乗車中の振動音の事でひとつ記憶に残っています。以前は「ガタン、ガタン、ガタン」とレールの接続部分の音がしていましたが、ある時期から「カタカタカタカタ」とリズミカルになっていました。昔ながらの音が無くなり、何となく寂しく感じました。ロングレール化され、サスペンションもまた良くなったのでしょう。
 
同じ頃、品川から錦糸町までトンネル区間を作って総武線快速と直通となり、横須賀線は地下ホームに移ります。下の写真はまだ東京駅の9番線、10番線あたりが横須賀線のホームだった頃です。
上の”東海”と同じ日、ブルートレイン撮影の時に撮りました。
 
          横須賀線       昭和52年9月  東京駅12番線

     113系

 
東京駅始発の横須賀線です。これは113系ですが、1977年頃までは夜8時過ぎに大船に到着する電車には古い車両がまだ利用されていました。
 
横須賀線ホームは9番、10番線なのですが、ブルートレインの入線ラッシュなので東海道線急行、特急用の12番線に入線したのだと思います。因みに真ん中の線路がホームの無い11番線です。
 
総武線快速が地下用の防災仕様で1000番台と言うのは知っていましたが、難燃剤を使用するなどの地下用A-A基準とか、B基準とかの言葉も初めて知りました。厳しい火災防止用の基準があるようです。
 
私は良く知らないのですが、非常口の有無もあるようです。外装の見た目でわかるのでしょうか?。
1000番台初期は窓枠がRで、後期が角になるようです。これはどちらでしょう。
 
 
                   姿を消した70系
 
幼児期、大船を過ぎた頃かその手前あたりにスカ色電車が十数両並んでいる所がありました。車両基地の引き込み線なのでしょう。上り東海道線の右席に座った時、南側の海が眺められる方です。
 
上り東海道線に乗車中のほんの短い時間、ずらりと並んだスカ色電車の顔が見られるのですが、初めの頃は70系だったと思います。6歳頃のはっきりとした記憶では70系と111系が半々で並んでいました。
 
しかし次に見ると5両程度に減り、また次には3両と減り続け小学3年生の頃には全くいなくなりました。子供の頃から80系の顔が好きだった私は、70系も同じ顔をしているので好きで記憶に残っています。2扉の80系と違い、70系は3扉のセミクロスシートでした。
 
 
 
 
 
地元の身延線の急行”富士川”が80系だった頃の車両が、富士宮駅に4~5年間残されていました。
学生時代に記念写真を撮っておきましたので、参考に80系の顔をご紹介します。昭和53年の事です。これまで何度もこの画像は利用していますが、私にとっては思い出深い懐かしい写真なのです。
    左隣りの113系は、身延線に頻繁に見られた創価学会の臨時電車だと思います。
 

この場所は富士宮駅のすぐ横にあった引き込み線です。大体113系の臨時電車が停車していました。画面左側が南なのですが、川もあって原っぱが広がっていました。小学生の頃、早朝学校へ行く前に自転車を走らせ、ひとりで良く泥鰌を捕っていました。

 

最近は開発が進んでコンクリートで整備されています。また現在ではこのあたりの身延線は高架化されていて、この場所は広いアスファルトの駐車場になっています。

 
 
 
 
 
 
東京駅と言う事で、東京駅発着のL特急をついでにご紹介します。私の学生時代には勿論、L特急は伊豆方面しかありませんでした。L特急の発着はほとんどこの13番ホームでした。写真の左側は
14番線なのですが一段高くなっています。そこから19番線までが新幹線ホームです。
 
                   東京発着のL特急
 
     下田行き特急電車  あまぎ      昭和52年9月  東京駅13番線

     183系

 

”あまぎ”は、昭和44年、新幹線の三島駅ができた時に生まれた特急電車です。157系が利用されていましたが、私が興味を持った頃にはすでに引退していて、こちらの183系に置き換わりL特急となっていました。

 
この当時すでに《踊り子》も登場していて伊豆方面へ向うL特急は2本立てでした。昭和53.10月(ゴーサントー)でヘッドマークがカラフルな絵模様になる1年ほど前の撮影です。知らないうちに《踊り子》一本になり姿を消してしまいました。
 
 
以前、東海道線の80系の思い出を以下に述べています。宜しかったらご笑覧ください。