1432年(永享4年)
中世の関東において、軍師として武名の誉れの高かった 「太田道灌」が、相模に生まれた。一説では、武州越生( 現埼玉県入間郡越生町 )に出生したとの伝もあります。太田道灌は、清和天皇-貞純親王-源経基(源氏の祖)-その子の多田満仲と続く清和源氏の子孫であると。
道灌誕生の地とも言われ、龍穏寺にはお墓もあります。また有名な『山吹の里』の伝説地。
●道灌の山吹伝説
太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。