ぜっちんのブログ

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亡くなってからもうすでに20年になるHIDEちゃん。
好きだったから、亡くなってしまった時のとことは忘れられません。
テレビを見ていたら突然、テロップでX JAPANのhideさんが死去しました。
と流れました。その瞬間。HIDE好きの姉が部屋に飛び込んできました。
ただ一言「HIDE・・・・・・死んだ」と。
今でこそXが海外での評価が高くなってきたり、日本でも大御所扱いされたりとしていますが、私には違和感しかありません。
元々、海外でのアーティストの交流を始めたのはHIDEちゃんですし(マリリンマンソンにライブの対バンを求められて「バカマンソン」発言をしている)

その後のYOSHIKIの活動もあるのでしょうが、HIDEちゃんの方が最初ではないかとおもいます(違うところの批判は受け付けます)

 

そして次なる違和感。Xは横に置いておいて、HIDEちゃんのソロでの活動を含めてV系という一つのジャンルにくくられてしまっていることだ。
確かにHIDEちゃんはV系に所属しており、むしろ、V系というジャンルを確立した一人といってもいいだろう。
だからと言ってHIDEちゃんの音楽、影響はそこにはとどまらない。

影響を与えたアーティストとして私が思い浮かぶのはまずは、マリリンマンソン。

これは、マリリンマンソン側がHIDEちゃんのファンで対バンを申し出たというエピソードがある。

そして、今は亡きDRAGON ASHの創設メンバーでもあるIKÜZÖNEさん。(個人的にはこれも悲しい)
DRAGON ASHに加入する前からHIDEちゃんと交流があり、DRAGON ASHの「陽はまたのぼりくりかえす」ができたときには、

「これでやっとHIDEさんに聞かせられる曲ができた」と語っている。しかし、すでにHIDEちゃんはこの世にはなかった。
その後、IKÜZÖNEさんのベースのアンプにはHIDEちゃん人形が飾られている。
そして、もう一つのアーティストはROTTENGRAFFTYだ。
アルバムの中で「(無題)」の曲がある。
これはHIDEちゃんに送った曲だ。

ROTTGRAFFTYもうそうだが、DRAGON ASHもV系とは程遠いラウドバンドだ。
そこのメンバーにも影響を与えたHIDEちゃんをV系でまとめてしまわれることの違和感を私は感じている。

FUJI ROCKも何もなかった時代に、HIDEちゃんは今でいうところのAIR JAMのようなイベントをやろうとしていたという話がある。
その話はHIDEちゃんの死とともに立ち消えになってしまったが。

自らの音楽をサイボーグロックと呼び、好きな音楽はジャンルが違えど賞賛し、アマチュアならメジャーへの扉を開いた。
このように多方面に影響を及ぼし、いわゆるV系だけではなく、ラウドロックなどにも影響を与えたHIDEちゃんの音楽をはたしてV系でまとめていいものだろうか。

私は最近、死後20年たってだが、色あせない(ファンの色目があるのは認める)HIDEちゃんの音楽、そして影響力はV系に留まるものではないのではないかと思っている。

 

ちなみに、今私が好きなアーティストの中にチバユウスケ、Coccoというアーティストがいるが、この2人は生前HIDEちゃんが聞いていた、またはほめていたアーティストだ。
チバユウスケに関しては、当時THEE MICHELLE GUN ELEPHANTというバンドをしていたが、HIDEちゃんが「ミッシェルガンかっこいいよね」とほめていた。
Coccoに関しては生前のHIDEちゃんが聞いていたものである。


V系はどうしてもファンが熱狂するあまり、他のジャンルから拒絶されたり、距離を置かれたりすることが多々ある。
しかし、音楽は音楽だ。見てほしいのはファンではなく音楽だ。
純粋に音楽を見たならばジャンル以外の繋がりを感じていただけるのではないだろうかと思う。

好きなバンドのすそ野が広がるのはいいことだと思う。それはKENさんが言ってるROCKのすそ野が広がることにつながると思うし。 そこで言いたいのはモッシュダイブの問題。今でも論争になってるのに、ROCKも知らない人たちがライブに入ってきたときにどうするのか。

10-FEETのTAKUMAも言ってるが、俺たちはモッシュダイブのカルチャーの中で育って、遊んできたわけで、それを否定するつもりはさらさらない。 もちろん危険が伴う行為だから、やる方には怪我をさせるかもしれないという自覚を持つのは当たり前だと思うが。

でも俺自身がモッシュのど真ん中に突っ込んでいく方だし、それが楽しいと思う人なのです。

なので、せっかく好きになったバンドなので、どんなカルチャーの土台の上にあるバンドなのかは知ってライブに来てほしい。ヒールとかはマジでナシw

TVには出てほしいし、ファンも広がってほしいけど、その反面、POPカルチャーの人たちがこっちに来てモッシュダイブに文句を言うのは違うと思う。そも そも文化が違うんだし。それを知ったうえでこっちのバンドのファンになってほしい。理解できないなら、モッシュダイブが起こらない場所で遊んでほしい。

前で見たいというのはわかるけど、前で見るということはモッシュダイブが絶対に起こるというカルチャーの上に成り立っているバンドなので。

最近よく耳にする言葉がある。自民党による言論統制だ。
ある大臣がこう発言したことから言われるようになった。「放送局が政治的な公平性を欠く放送法違反を 繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性もある」と。
これは立派な脅しである。この言葉を過激にしなくても、裏を返すだけでこういっていることにはならないだろうか。「私は言論統制、言論弾圧をします」
かつては、故忌野清志郎氏がラフィータフィー名義で『冬の十字架』というアルバムを発売した。その中に日本の国歌である君が代をアレンジして入れた。ただそれだけにもかかわらず、『冬の十字架』は、本来発売されるべきメジャーではなく、発売禁止となり、インディーズレーベルからの発売となった。
日本に報道や言論の自由というものが本当に存在するのならば、どうしてメジャーから発売できなかったのであろう。イギリスではかつて、何十年も前にセックスピストルズが『NEVER MIND』(邦題:勝手にしやがれ)を大手レコードレーベルから発売した。その中にはイギリスの国歌である「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が入っていったにもかかわらずである。
だが、日本にまつわる言論の自由や、言論統制にはこれだけでは終わらないところがある。
そしてそれについて避けては通れないところが原発だろう。
忌野清志郎氏についてもう少し書かせてもらうならば、1980年代に覆面バンドとして活動したタイマーズだろう。忌野清志郎氏はタイマーズの中で原発について猛烈に批判し、ラフィータフィーと同じく、その前に発禁になっている。その中で清志郎氏は「言論の自由があるって教わってきたけど、そんなもの嘘っぱちだった」と発言している。
話は変わるが山本太郎氏についてもそうだ。彼は何もしていないだろう。ただ、「反原発」と言葉に出しただけ。ただそれだけで、事務所をクビになった。
それだけでタイマーズのレコードは発売禁止になり、山本太郎氏は事務所をクビになったのである。
さらに漫画である美味しんぼについてもそうだろう。福島原発の問題を取り上げて、大問題になったが、あれも私個人としては違和感を否めない。放射線についてはわからないことが多く、その影響も未知数の部分が多い。だから可能性の一つとして、ああいった形ではあるが、あくまでも可能性の一つとしてそれを提唱した。私から言わせればそれに過ぎない。なのに腫物を扱うかのように、大問題になった。
これをもって日本という国に問いたい。なぜ反原発と言ってはいけないのか。思想の自由、言論の自由をもって反原発ということがなぜいけないのか。それを言うことによって社会的制裁を受けるという事実がある以上、私はそこに言論の自由を見出すことはできない。君が代の件にだってそうだ。なぜいけないのか。そこに表現の自由はないのか。

最近になって与党の議員から言論統制取れる発言が多発している。電波停止発言もそうだ。反戦デモをした学生に向かって「利己的だ」と発言した議員もいた。
なぜ、反戦デモをしたら利己的なのか。戦争に行きたくない。戦争で死にたくない。核の放射能に侵されたくない。それを日本は70年前に経験し、教訓とし、今日まできたのではないのか。
多くの国民は戦争ができるようになることも望んではいないし、戦争に行くことも望んではいない。そう私は信じているし、それが真実だと私は考える。
そんなに戦争に行きたいのならば、自らが先陣に立って自衛隊に入り、PKOなり、アメリカの「正義の」戦争の手伝いになりに、最前線に立って行くべきではないだろうか。
安保法案に関連する議員だってそうだ。自らの息子や娘を議員にせず、同じく自衛隊に入れ、最前線に送り出してこそ、国民が安全だと信用するというものだ。本当に安全ならばそれくらいできてしかりではないだろうか。

それを批判すらしないメディアも存在する。それを批判しようとすると圧力がかかるメディアも存在するだろう。それは忌野清志郎氏の発言に対して圧力がかかったのと同じだろう。
改めて私が問いたいのは、このような日本のどこに言論の自由が存在するのか?
ということだ。反原発について発言すれば、社会的制裁を受ける。政府について批判的なことを言えば圧力がかかり、発言できなくなる。それを歌にして発売しようとすれば発禁になる。こんな国のどこに言論の自由が存在するだろうか。
そんなことだから日本は報道の自由ランキングで61位という不名誉な順位になるのだ。
日本に真の言論の自由があるのならば、誰が、誰に対して、何を言っても、何も問題はないはずだ。なぜならば、それは憲法で保障されているのだから。ならどうして、言ったこと、報道したことに対して圧力がかかるのか。

憲法で保障されているにもかかわらず、発言したこと、報道したことに圧力がかかる国とはいったい何だろうか。
与党議員の発言の中身は一体何だろうか。日本という国はどこに向かっているのだろうか。
最近私は議員の発言を聞いていて、本当に恐ろしくなる。戦前の日本や、かつてのソ連、ナチスなどのように、これから本格的な言論統制や、表現の自由、言論の自由に対する圧力がかかり、最終的には弾圧にまで発展するのではないだろうか。
政府に批判的な発言を容認するだけの、器の大きさがまだこの国にあると私は信じたい。