東京・歌舞伎町。ネオンがきらめく夜の街で、異彩を放つ男がひとり。彼の名はモース警部——クラシック音楽とクロスワードを愛する英国紳士。しかし、今宵の彼はまったく場違いな場所にいた。


「水をください。白開水がいい。」





バーカウンターでそう言った瞬間、バーテンダーの動きが一瞬止まる。周囲の客もちらりと彼を見たが、すぐにまた自分の酒に戻る。ここは歌舞伎町、どんな奇妙な客がいても驚かれはしない。ただ、酒ではなく“白開水”を頼む紳士は珍しい。


「申し訳ありませんが、お水は…」


バーテンダーが言いかけたその時、遠くから聞こえてきたのは——ヴェルディの『椿姫』。


「おや、オペラですか?」


モースの目が輝いた。こんな場所にも音楽の趣味が合う者がいるのか。彼は音のする方へと歩き出す。夜の喧騒の中、オペラの旋律が微かに響く。


「……やはり、私はケンブリッジに帰るべきだな。」


日本の夜の混沌は、あまりにも彼の世界とかけ離れていた。次の便でロンドンに戻ろう。白開水を一口飲みながら、モースは静かにそう決意した。