公演会「ぺンシルからイプシロン、そして未来へ」

2015718()

会場:サイエンスヒルズこまつ

石川県小松市に来たのは、今回で5回目。

父は能の師匠だったため、中学生の途中まで謡や仕舞などの指導を受けていたので、勧進帳の舞台となった安宅の関を拝見しに来たことがあるそうです。

 

 

①フォンブラウン × 糸川英夫

フォンブラン先生と 糸川先生は同い年、1912年に産まれた。

サターンⅤ

フォンブラン先生は日本に1度だけ来たことがあり、その時にNHKの番組をとおしフォンブラウンと糸川先生は対談をしている。

 

その場に

当時、恐れを知らない学生だった的川先生は、フォンブラウンに皮肉を交えた質問をした。

Q(的川):V2ミサイルを作った時の気持ちを!

A(フォンブラウン):戦争が終わった後、かならず人は月や火星にいく時代がくると確信していた。

そのためには、”月や火星に行くためには、悪魔とでも手をむすぶ。” という気持ちでいた。

 

④実際の事柄、実物の物と触れ合うことの大切さ。

[的川先生が「エッフェル塔がみえる公園」のベンチで休息していた時。]

→日本人の観光バスが止まり、降りてきたオバ様方が一言「パンフレットと一緒だね〜。」

[星空を見に行って、星や天の川を見に行った時に聞こえてきた言葉。]

 →「プラネタリウムといっしょだね~。」

 実際のモノと触れ合う機会がないからなのでしょうね。どっちが本物なのかを見失っている。

本物に触れたり(見たり)する事には、それだけで価値がある。

 

 

 

⑤的川先生の幼少期の記憶

呉市出身:大きな戦艦を作っている様子をみた記憶がおぼろげにある。それは大和だった。

・親から学んだこと、「父の矜持、母の背中」。

[母の背中]

空が真っ黒になるくらいの爆撃機にあい家族を亡くす。

より安全な場所へと、各所にある防空壕へ移動して逃げたから生き延びた。

その時の母の背中を覚えている。

[父の矜持]

終戦直後、アメリカ人から貰うなと云われていた“チョコレート”を持っているときに父(軍人)が帰宅し、隠そうとしたが咎められて「お父さんも食べる?」とさしだすが叩くように捨てられる。私は「(周りの人はもらっているのに)」と理解できていなかったので「どうして?」ときくと、父は「日本の矜持である。」とだけこたえる。

 “矜持”が理解できなかったので、母にたずねてみる。「何があったのか」と聞き返され、一部始終をはなすと辞書をわたされ調べてみたが当時はそれでも理解できなかった。

「矜持=プライド」。今になって考えると、「日本は敗戦したが、人間としてのプライドは捨てるな。」という事だったおもう。

 

 

「大学では部活に明け暮れていた。」

航空学科宇宙工学コース

 

学科を選ぶ時に

1番スケールがデカそうだったから選んだ。

これまでは、そんなに宇宙も天文も興味なかった。

「僕は宇宙に直接興味ないから、惑星とかそんなに知らないんだよね。

夜釣りで星がキレイだなと思っても、それについて研究しようとは思わなかった。」

(おいおい、宇宙教育の父がなに言ってんの?) 

 

質問:

(宇宙に直接興味がない)先生が宇宙開発に携わって、興奮したり血が沸く瞬間だったり、面白いなって思うのはどんなところですか?

答え:

①団体で取り組むたのしさ。

②スケールのデカい、プロジェクトの魔力。

「テニスでもダブルスをしていた、団体戦が好きだった。大勢の人間が一丸となって、デカいお金をつかって、未知な物に挑戦をするという体制がこの仕事の面白いところ。」

 

 

おまけ

的川先生:アテネという街があってねー。