教育放棄 | おかあさん。

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漫画、ファッション、料理、育児ネタ。。。
掲載予定、好きなもんばっかり。
あ、でも苦手な片付けとか掃除とかも、ときたまありかも・・・

乳飲み子と嫌々期の子供がおるので基本放置のブログですが、
失笑を誘うブログ目指していきますのでよろしくお願いしまーす。


今日はとてつもなく暗い話です。


これまでの流れからすると突拍子もないくらい、

衝撃的かもしれません。(笑)



※暗いのが得意じゃない方は閲覧を控えてください。

 あと、過去のことで悩んでる人間を見るのがあんまり好きじゃない方も、

 正直オススメできません。




でも、これはまぎれもない私のノンフィクションであり、

幸せを感じる時には必ずと言っていいほどセットで付きまとう思い出でもあるのです。


この事があるからこそ、

今の私はどんなに小さなことでも喜びに感じ、

人とは多少違った角度から物事を見れているのかもしれない。



そう思うと、

あながち、忌まわしい過去でもないようです(^-^)












実は私、義務教育期間中にあまり学校に行っていません。

小学校3年から中学校3年の2学期の終わりごろまで空白でした。



通常、保護者はいかなる事情があっても

小1から中3までの9年間、子供を学校に行かせるのが義務です。



それなのになぜ学校に行っていなかったかというと、

母親と交際中の男があちこちで借りた借金が返せないという理由で、

夜逃げしては見知らぬ土地へ隠れ住む、というのを繰り返していたのです。


学校に行くには住民票を移さなければならず、

移したらすぐに借金取りにバレてしまうから、

母親はさも当然の成り行きであるかのように、

「学校なんて行かなくてもいい」

そう言って、私に家から一歩も出るなと命じました。






それは言葉では言い表せないほどの生き地獄でした。






母と同棲中の男は、長距離トラックの運転手をしていました。

仕事も続かず、給料もすぐにギャンブルで使い込むような男でした。


母は9歳も年下のその男の仕事に、うきうきとついていきました。

長距離なので、一度仕事に行くと2,3日は帰ってきません。


私はほとんどが留守番です。




母の留守中、

近所に私の存在がバレると困るので、暗くなっても電気をつけるなと言われていました。

だからお風呂も入れませんでした。

こっそり入ってもなぜかバレてしまうのです。



ご飯は、一日にインスタントラーメン一つあればいい方でした。

昼と夜に半分ずつ食べるのです。

泣いてもわめいても食べるのはそれだけでした。





本当はガスを使うなといわれていましたが、

これは母の言いつけを守らずにお湯を沸かしました。




母の機嫌が悪かったり、金銭的に厳しかったりすると、

その唯一のラーメンすらなく、

3日間まるまる何も食べない日もありました。



薄々私の存在に気づき、不審に思った近所のオジさんやオバさんが

玄関のドアノブにスーパーの袋をかけてくれた時がありました。


ファミリーパックのアイスクリームと、スナックパンなどが入っていました。

私は泣きながら食べました。






その時私は母に対する罪悪感を持ちつつも、

初めて他人の優しさに触れ、感謝の念というものを知りました。






でも、頭が悪かった私は、

ゴミ箱に捨ててある空袋を見て気づいた母に詰問され、

正直に言うと途端に、

顔の形が変わるほどに殴られました。






はっきりと死にたいと思いました。


明日こそは死んで楽になろう。

そうして母を後悔させてやろう。



それが、唯一の私の目標であり、夢であり、希望でした。







当時私は10歳。

一日中薄暗い部屋の隅で、食べるものもなく一人うずくまっていました。




夜になると母とその男の営みの声が聞こえてきます。

泣いて頼んでも、その行為をやめてはくれませんでした。


それどころか、思いっきり蹴り飛ばされて終わりでした。



その時の男の意地悪な笑顔がこびりついて離れません。






何で自分は生まれてきたんだろう。


どうしてまだ生きているんだろう。




そんなことをずっと考えて、


たくさんの大切な時間は過ぎていきました。






学校に行っていないので、友達もいません。

心を許し、安らげる相手もいない。



喘息でアトピーの私は、お日様にあたらないので体が極端に弱っていて、

食べるのも不自由していたので体が痩せ細り、

運動もしないので体力はなく、子供とは名ばかりのもはや老人のような姿でした。




自分を知っている人間は母とその男だけ。

私がいつ死んでも、誰も気づかない。



このままではいつか死んでしまうかもしれない。


それなら死ぬ前に一度でいいから、

誰かに出会いたかったのです。

自分が生きていたという事を、誰かに知って欲しかった。




私は勇気を振り絞って、お金も知識も何もないまま、

脱走を試みました。





でも、無力な私にはそれもかなわず。


結局待っているのは激怒した母の暴力でした。



私はもう、何もかもどうでもいいと思うようになっていました。





やっとここに書けて、子供時代の私も少しは浮かばれるかもしれません。


時間はかかったけれど、

自分の記憶から逃げずに、向き合うことが出来るようになってきました。


最近はようやく過去として見れるようにもなりました。






食べる物もあるし、暗い部屋で静かにしていなくても怒られない。

淋しさという鎖から、やっと開放されたように思います。





あれから18年。





死んだ母親を恨む気はありません。


父はまだ生きていますが、この事実を知らないので、

父の前ではいたって普通に生きてきた自分を演じています。






結婚6年。子供なし。

1歳年上のダンナと1歳のチワワとの2人1頭暮らし。






人にとって普通の、当たり前のことでも、

私には目標であり、夢であり、希望であったあの時の気持ち。

忘れたくても忘れられないけれど、

かつてはそれが苦痛だったけど、

今はそのおかげで

当たり前なんて、どこにもないんだという事を常に気づかせてもらえる。






それでもまだクヨクヨしてる時も多いけど、

そういう気持ちになれただけでも私にとっては進歩だから、

そういう時は素直に自分をいい子いい子しようと思います。





生まれてきてよかった。

あの時、死なないでよかった。


今はまだここまでだけど。






いつか近いうちに

「 お母さん、生んでくれてありがとう! 」と本音で言える日がくるといいな。