☆インディゴチルドレンたちの思い☆


昨日に引き続き『インディゴチルドレン-新しい子どもたちの登場』 リー・キャロル、ジャン・ドーバー編著/愛知ソニア訳)から、インディゴチルドレンとして紹介されている方たちのコメントをご紹介したいと思います。+ちょっと話が飛躍してしまうかもしれません。


インディゴチルドレンと呼ばれるタイプの子どもたちは、小さい時から周囲との間にどこか違和感を覚え、自分は周りと何かが違うのかもしれない、おかしいのかもしれないと感じ、彼らを理解し、サポートしてくれる大人が周りにいなかった場合、深い孤独や葛藤を抱えて生きてきている場合が多々あります。


例えば、この本の中で、ある20代の方(男)の言葉で印象に残ったものがあります。


「インディゴであることについて、信じられないほどの大きな怒りと激しい感情を成長過程で感じます。というのも、どのように感じているのかを説明すると、決まって誰も理解できないからです」


また、ある20代の方(女)は、自分が感じる自分のことや物事に対する理解について他者に話すと、彼らは自分のその”感覚”を理解することができず、反感を得ると言います。


「本当にわかっていないのはわたしだとか、そんな知識を持つには若すぎると言われます。わたしが自分は”進化している”と言うと、それは私のエゴであるというのが、スピリチュアリティを知り、よく経験している人たちからの反応でした。 (中略) 人々は自動的に、それはエゴから生じていると受け取ってしまいます。」


私にも、この激しい感情や葛藤、自分を理解してもらえない感覚がわかります。確かに何かを”感じ”、”知っている”、”わかる”けれど、でも、それがここではうまく伝わらないという感覚などです。

そして、”調和”、”平和”を求めるがゆえに、自分を見つめる作業を繰り返します。「自分が間違っているかもしれない。それはもしかしたら私のエゴかもしれない」と。でもやはり、どこかに違和感が残ります。


この”自分を振り返る”というのは、私のタイプであって、突き進んでいくタイプの方や、気にもとめないタイプの方もいると思いますが、今回、この本を数年ぶりに読み、この”エゴ”という箇所について感じたことがありましたので、ここに記したいと思います。


スピリチュアルなことを勉強していくと、”エゴ”というキーワードによく出会います。”エゴ”があるとか、”エゴ”がないとか、それによってその人物を判断したりすることもあります。

”エゴ”は”普通”に生きていくにあたりある程度は重要なものであり、”エゴ”自体が、悪であるとか善であるとかそういうものではないと思います。”エゴ”についてはスピリチュアル的には様々な解釈の仕方があるかと思いますが、一般的に、”エゴ”はない方がスピリチュアルであると思われていることが多い気がします。


例えば、長年スピリチュアルなことを勉強されていたり、自分磨きをされていたり、修行されていたり、奉仕活動をされる方の中には、この”エゴ”を取り除いていくという作業をがんばってきている人たちもいます。”エゴがない”=”スピリチュアルな自分”という図式がどこかにあるのかもしれません。この作業はこれまでの歴史において、重要視されていたことのように感じます。

最近では、こんな時代ゆえ、今までは門外不出だった様々な知識・文書(スピリチュアルなことに関する)が世界の様々な場所で解禁になりつつあるようです。その中には、”エゴ”をなくしていくという作業を重要視している方たちも多くいるように思います。


そんな流れがあるので、”エゴ”をなくしていくというのが、とても重要なことだと私も思っていましたが、今回、「あれ?もしかしたら、私が感じていた違和感はこれかもしれない!」というキラメキが、先ほどご紹介したインディゴの子のコメントやこの本を読んで感じました。


そもそも、その、”エゴ”をなくしていく=”スピリチュアルな自分”という図式に何か違和感があるのかもしれません。自分勝手、好き勝手であれば良いと言いたいのではありません。


もともと、インディゴ的感覚は、”調和”、”平和”、”愛”を基調としていると感じます。インディゴの子は、システムバスターと呼ばれることもあり、既存のシステムを改革していくという使命を持っている子もいますので、ここは逆説的なようにも感じますが、インディゴ的感覚は、はじめから、自分勝手、好き勝手という”エゴ”は持ち合わせていないのではないかと感じます。この人生で育つ過程の中である程度身に着けてしまった場合や、その他の要因があるなど、様々なケースはあるかもしれませんが、その基礎が今までの人類が持ってきているものとは違うのかもしれません。


要点としては、スピリチュアル的に重要視されている”エゴ”のとらえ方さえも、今までの考え方と、インディゴ的感覚では相違があるのではないかということです。なぜなら、インディゴ的感覚を持つ者は、すでに、今まで人類が葛藤してきた”エゴ”を飛び越えているからです。


インディゴ的感覚を持つ者にとって、今何よりも大事なのは、やはり”自分が誰であるのかを思い出す”こと”自分はなぜここにいるのかを思い出す”ことではないかと感じました。