『検察側の罪人』見てきました。
正義とは何か。一線を越える。というテーマであるというこの映画、先入観を持ちたく無くて敢えて原作を読まずに拝見した感想を、まず書いてみたいと思います。
それから原作を読んだ後にも、改めて書いてみようと思っています。
原作にないというインパール作戦についてはNHKの番組を見て知っていました。
冷静な分析よりも組織の人間関係が優先され、認可されてしまった三万人の犠牲を出した史上最悪の無謀な作戦。
反対意見はパワハラで抑え付けられ、排除され、絶対原理である任務の遂行のため、引き返すことができなかった。そして誰も責任を取ろうとせず、それぞれが自分を正当化することに終始したという。
それがどう絡んでくるのか。
最上の正義は『罪を犯した者は罰せられなければならない。』
自分の正義のためなら一線を越え、法を犯してもかまわない。時効が成立していようと、どんな手を使ってでも罰する。
沖田の正義は『法を犯した者は罰せられなければならない。』
しかしいくら自分の正義のためでも一線は越えてはならない。法の遂行こそ正義である。
正義の反対は悪ではない。というのは『無限の住人』でも感じたこと。
子どもが見る戦隊物、ヒーロー者も勧善懲悪、悪人、罪人はやっつけられ、滅ぼされなければならない。しかし、『無限の住人』にも出てきたように、何を善、何を悪とするのかは人それぞれであり、立場が変わればそれも変わってくる。敵対するそれぞれのストーリーの中にも自分の中では筋が通った正義がある。
「正義」対「悪」の構図は危険を孕んでいるように感じる。いじめもいじめている側にとっては悪者をやっつけている正義の味方のつもりなのかもしれない。だから私は戦隊ものが好きではない。人を苦しめる者(敵、悪者)を、やっつけるのではなく、癒して浄化するセーラームーンが好きだ。
話がそれてしまった。
つまり一方から観れば、正義・善(自分側)と悪(相手側)との戦いでも、客観的に観れば自分なりの
「正義と正義のぶつかり合い」と言えるのかもしれない。
だから難しい。
どちらが悪い、良いと白黒はっきりつけられるなら簡単だけど、それぞれが自分の正義を信じ、それなりの理屈がある。自分の信じたストーリーからはずれることは今までの自分を否定することになるから受け入れられない。
信念をもって自分の正義を疑わない。反対意見には独自の論理で反論し、正当性を訴える。
それが上司や立場の上の物からの言葉ならパワハラとなり、下の者は保身のため従うしかなくなる。
インパール作戦もそんなふうに後戻りできないものになっていってしまったのか。
『自分の正義に固執し、自分の中で都合のいいストーリーを作るようになると犯罪者におちる』と冒頭の講義で力説した最上。にもかかわらず、自分にとってはもっと大義のある、自分なりの正義を貫くために真実を曲げ、ストーリーを構築し、目をかけていた沖野に自分が教えたことを逆に突きつけられることになる。それはもう『正義の剣』と言うよりも、自分の目的を果たすための言動を正当化するためにこじつけたストーリーに『正義』という名を与えて自分を納得させているだけのようにも思えてくる。久利生検事なら『正義かどうか』ではなく『真実(事実)はどこにあるのか』を徹底的に追及するのだろうけど。
自分の正義のため自分の利益のためにどんな手も使う。そして周りは保身のために従う。
現在の政治とメディアなどの問題も同じ構造かもしれないし、「正義とは何か」というテーマだけでなく、この映画はたくさんの現代の日本が抱えている問題に警鐘を鳴らしているように思う。
少年犯罪、戦争と政治、政治とメディア、情報操作、時効の問題、高齢者の事故、パワハラ等々大小これでもかと詰め込まれていて、詰め込みすぎて焦点がボケやしないかと思うくらい。
インパールの時代から、もしかするとそれ以前から現在まで続く日本の悪しき構造の連鎖、それに気づかせてくれる作品。
今起こっているたくさんの問題に私たちは気づき、危機感を感じなければいけない。それがこの映画のもう一つのメッセージかもしれない。しかしそれは、巨悪や人の生死が絡んでいるような大きな社会問題だけの話ではない気がする。
自分とは掛け離れた遠い世界の話だと思いがちだけど、『自分の正義に固執し、自分の中で都合のいいストーリーを作り、ストーリーに合わない要素を切り捨てること』は誰しもやりがちな身近な問題。SNSでもよく見かけるし私もやっていることもあるだろう。人を殺めないまでも、自分の正義を守るために自分の意見と違うものは悪と決めつけ、攻める。また自分を認めさせようとして相手をコントロールしようとする。しかも正義のためにしていることだと罪悪感さえ持つことはない。だからこれから先も自分の信じたストーリーを守るためなら人を貶めることもしていくのだろう。
しかしその理屈は相手も同じであって、自分も同じである、つまりお互いさまなのに、どちらも自分が正義であると、その証拠と言えるものを集めては攻める材料にしようとする。それでも状況証拠(つまり解釈でどちらにも転がる)であって、確実な証拠はみつからなかったりする。相手が、都合のいい勝手なストーリーを作っているのはすぐに見つけて攻め立てても、逆に自分も自分の目的に合うストーリーを描いてることに気づくこと、或いは気づかないまでも自分を疑ってみることはあまりにも少ないんじゃないか。
それが自分の利益のためだけでなく、守るべき人のためになっていると思い込んでいる場合は、罪悪感も無く更に重症。
自分を疑うことは必要で大切だけど、そうなるとますます難しい。
自分が正しいと信じて相手を攻めている間は心はブレずにいられるし、ある意味安心していられる。だけど自分を疑い始めたら冷静ではいられなくなるだろうから。
最後まで自分を疑わなかった最上、沖野の叫びは明らかな正義と悪なら決着がつくはずのものが、正義と正義であることからくる救いようのないそんな感情からくるのかもしれない。
最後のシーンで別荘の二階から祖父の形見であろうハーモニカを持ち、検察側でなくなってしまった沖野を見下ろす図、自分の正義の邪魔をする者はたとえ目をかけていた沖野であろうと消す覚悟があるかのようでぞっとした。最上はこれからも検察側にいて、自分の正義を貫き通し、法を犯すことも厭わないだろうから。結局この映画で突き付けられた『正義とは何か』という答えは見つけることはできない。久利生検事の『何が事実なのか』という観点でしか白黒付けられないのかもしれない。
そして、原作未読で映画を一度見ただけではわからなかったことをいくつか書いておこうと思う。
一つは一線を越えるに至る最上の心の動き。最上は今までも裏家業の諏訪部をポチにして法を犯すようなことをやってきていたのだろうかと思ってしまったほど。家宅捜索の周到さ(すかさず競馬新聞をポケットに入れたり…)、諏訪部に車や携帯電話を手配する手際の良さ(それも声に出して場所などを復唱する)しかも銃まで手配して人の命を奪うことを選択してしまったから…。最上である木村拓哉がその動揺をトイレで嘔吐することや目で表現してくれたことでそうじゃないのだなとわかったけれど…
そして何故最上は弓岡の方を殺害したのか。どうせ一人殺すなら松倉を殺害した方が早いんじゃないか。それこそ必殺仕置き人みたいに。検事として松倉だけは法によって罰したいということなのだろうけど。
それから、白川弁護士の登場が唐突で何者かよくわからなかったし、誕生日占いにこだわる最上、暴露本を書くために検察に潜入したという沙穂の設定は原作通りなのか、言動が説明的で辻褄合わせのようにも感じてしまった。細かい設定や伏線それぞれに意味があるはずだけど、そのすべてを理解することはできなかった。
インパール作戦の知識がない人にはどう映ったのかも気になった。
そして、原作を読みました。
2時間ちょっとの映画という媒体で、上下2巻の小説を表現するには無理もあると思うし、
戦争と政治、少年犯罪やメディアの情報操作など、現代の日本が抱えている様々な問題もからめ、危機感を持って欲しいという意図もあったのだろうけど、いろんな要素を詰め込み過ぎて、一番のテーマである『正義とは何か』という主題がぼやけてしまう危険性もあると思った。それが原作との設定の違いにもあらわれ、たくさんの登場人物の要素や出来事を限られたキャストに振り分け、エピソードをまとめたり他の要素を追加したりした結果、話の辻褄はなんとなく合っていても、どこか不自然さを感じさせてしまうものになっている気もする。原作では実子である娘が妻の連れ子でないといけない必然性も私には感じられなかった。「結婚は出世の手段だ」と言う丹野が政略結婚であるという設定に対する対比の意味合いだったのかもしれないけど。
誕生日占いへのこだわり、沙穂の裏設定、等々も意味を見出そうと考えたけれど、原作を読んだ今では余計にわかりにくくなってしまった。
原作と違うところを改めてまとめると、主なものだけで
・最上の娘が実子でなく妻の連れ子である
・橘沙穂の裏の顔や幼い頃の経験(友の両親の冤罪事件)
・誕生日占いへのこだわり
・松倉の過去の少年犯罪や兄の存在
・由季の年齢、殺害までの流れ、歌「cry me a river」の思い出
・最上と諏訪部の関係
・インパール作戦
・被害者の次男が暴力団
・丹野の自殺の理由と自殺の手段
・白川弁護士の登場の仕方 等々
そして最も違うところは結末!
・原作では弓岡の死体は発見され、松倉は釈放、最上は逮捕される。
まるで違う!
原作を読んで感じたテーマはやはり『正義とは何か』ということ。
それぞれの正義があり、正義と正義のぶつかり合いであることは映画も同じであるけれど、
原作を読むと最上が一線を越えるに至った心の動き、最上の正義がよく理解できた。
それも検察官であるが故の正義。
家宅捜索でもいきなり競馬新聞をポケットに入れたわけではなかった。自分のストーリーに不都合なレシート(つまり、松倉のアリバイを裏付けるもの)を握りつぶしたのが初めての罪。そしてそれに代わる物証が欲しくて更に手を染めてしまう。
最後の一線を越えることを決めたきっかけは丹野の自殺であることは映画も同じだけど
映画では丹野は大物政治家である戦争推進派である義父の不正を暴こうとして罠にはめられ、戦えなくなって最上に託した形になっていたが、原作では義父を尊敬し、次期首相となって世の中を変えられるのは義父しかいないと信じて、検察から義父を守るために自分の命を犠牲にすることも厭わず罪をかぶった。どちらも自分の正義のために起こった悲劇ではあるが、死の意味がまるで違う。原作は前向き、映画は後ろ向きの印象。
原作では、命を捨てても理想を現実化しようとした丹野が生きられなかった今を生きてる自分。そんな自分にしかできないことがまだあるのではないかと、大それた行動と知りながら、やはりやるべきだと一線を越える決心をしてしまう最上。
時効で裁けなかった松倉を冤罪という最悪の形で裁き極刑を科し、そのために取り逃がすことになる弓岡にもそれ相当の罰を与える。それが検察官として罪を犯したものを罰するための正義だった。
映画では、インパール作戦から帰還し、真実を小説に書いた祖父のように、大きな不条理に対する反骨精神により、一線を越えることになる。(と、私は解釈した)
それに対する沖野の正義。沖野は最初から「正義とは法の遂行」だと言っていた。
松倉をどうしても犯人にしむけたいような最上に疑問を持ちながらも、映画では途中でカットされてた諏訪部の取り調べでの麻雀牌のゲーム。あれを最上が正解したと聞かされ、自分は不正解だったことで、自分の判断が間違いじゃないのかという疑念を持ち、最上を疑うべきでないと考えるに至る。だからこそあれだけあの松倉と対峙できた。
しかし結局自分の正義を信じ、法を犯した最上を裁き、冤罪である松倉の釈放を目指した沖野。
弓岡の死体が発見されたことで事件は急展開、最上の逮捕に繋がり、松倉は釈放される。
結果、かつて罪を犯した松倉はその罪さえも再び否認し、のうのうと自由を謳歌することになり、対して法を犯したとは言え、罪を犯した者を罰しようとした最上はアクリル板の向こうで自由を奪われ、それでも沖野を検察から去らせてしまったことだけが痛恨の極みだと言い、今でも正義を見つめ検事で居続けている。その対比を見た時、矛盾を感じた沖野は間違えていないはずの自分の気持ちを受け止めきれず、正義とは何かわけがわからなくなって叫ぶのだ。
映画では弓岡の死体は発見されず、共犯者が自主することで松倉は解放されるが事故に見せかけて諏訪部に殺害される。
結果最上は裁かれることなく、丹野に託された正義のために動こうとしている。
そこには対比は感じられず、最上の完全勝利で終わってしまっているようにもみえる。
松倉もこの世にいない今、正義とは何かの沖野の苦悩もはっきり伝わってこないように思われた。
『正義とは何か』を自由になった松倉と自由を奪われた最上を対比させることで考えさせようとした原作。
監督が結末を変えてまで私たちに伝えたかったことは何だったのか考えてみた。
インパール作戦との関連付け、話を着地させないことによって、日本の悪しき構造は今でも続いていること、そして今後も続いていくのかもしれないという怖さを伝えたかったのだろうか。
答えは結局見つからない。
私の正義は最上の正義か沖野の正義か、その答えも結局簡単には答えが出ない。
言えることは、人は誰しも自分の信じた正義のために行動する。というよりも、
『自分の求める目的を果たすために自分を正当化する『正義』という名の大義名分を作り出す』という点ではどちら側も、誰しも同じなのかもしれないということ。
私は『自分を疑うことができる人』でありたいと改めて思った。
そして一本の映画を見てこんなに考えさせられている自分がここにいること。
これこそが監督の求めた結果、思惑通りなのかもしれない。