『検察側の罪人』見てきました。

正義とは何か。一線を越える。というテーマであるというこの映画、先入観を持ちたく無くて敢えて原作を読まずに拝見した感想を、まず書いてみたいと思います。

それから原作を読んだ後にも、改めて書いてみようと思っています。

 

原作にないというインパール作戦についてはNHKの番組を見て知っていました。

冷静な分析よりも組織の人間関係が優先され、認可されてしまった三万人の犠牲を出した史上最悪の無謀な作戦。

反対意見はパワハラで抑え付けられ、排除され、絶対原理である任務の遂行のため、引き返すことができなかった。そして誰も責任を取ろうとせず、それぞれが自分を正当化することに終始したという。

それがどう絡んでくるのか。

 

 

最上の正義は『罪を犯した者は罰せられなければならない。』

自分の正義のためなら一線を越え、法を犯してもかまわない。時効が成立していようと、どんな手を使ってでも罰する。

沖田の正義は『法を犯した者は罰せられなければならない。』

しかしいくら自分の正義のためでも一線は越えてはならない。法の遂行こそ正義である。

 

正義の反対は悪ではない。というのは『無限の住人』でも感じたこと。

 

子どもが見る戦隊物、ヒーロー者も勧善懲悪、悪人、罪人はやっつけられ、滅ぼされなければならない。しかし、『無限の住人』にも出てきたように、何を善、何を悪とするのかは人それぞれであり、立場が変わればそれも変わってくる。敵対するそれぞれのストーリーの中にも自分の中では筋が通った正義がある。

「正義」対「悪」の構図は危険を孕んでいるように感じる。いじめもいじめている側にとっては悪者をやっつけている正義の味方のつもりなのかもしれない。だから私は戦隊ものが好きではない。人を苦しめる者(敵、悪者)を、やっつけるのではなく、癒して浄化するセーラームーンが好きだ。

話がそれてしまった。

 

つまり一方から観れば、正義・善(自分側)と悪(相手側)との戦いでも、客観的に観れば自分なりの

「正義と正義のぶつかり合い」と言えるのかもしれない。

だから難しい。

どちらが悪い、良いと白黒はっきりつけられるなら簡単だけど、それぞれが自分の正義を信じ、それなりの理屈がある。自分の信じたストーリーからはずれることは今までの自分を否定することになるから受け入れられない。

信念をもって自分の正義を疑わない。反対意見には独自の論理で反論し、正当性を訴える。

それが上司や立場の上の物からの言葉ならパワハラとなり、下の者は保身のため従うしかなくなる。

インパール作戦もそんなふうに後戻りできないものになっていってしまったのか。

『自分の正義に固執し、自分の中で都合のいいストーリーを作るようになると犯罪者におちる』と冒頭の講義で力説した最上。にもかかわらず、自分にとってはもっと大義のある、自分なりの正義を貫くために真実を曲げ、ストーリーを構築し、目をかけていた沖野に自分が教えたことを逆に突きつけられることになる。それはもう『正義の剣』と言うよりも、自分の目的を果たすための言動を正当化するためにこじつけたストーリーに『正義』という名を与えて自分を納得させているだけのようにも思えてくる。久利生検事なら『正義かどうか』ではなく『真実(事実)はどこにあるのか』を徹底的に追及するのだろうけど。

 

自分の正義のため自分の利益のためにどんな手も使う。そして周りは保身のために従う。

現在の政治とメディアなどの問題も同じ構造かもしれないし、「正義とは何か」というテーマだけでなく、この映画はたくさんの現代の日本が抱えている問題に警鐘を鳴らしているように思う。

少年犯罪、戦争と政治、政治とメディア、情報操作、時効の問題、高齢者の事故、パワハラ等々大小これでもかと詰め込まれていて、詰め込みすぎて焦点がボケやしないかと思うくらい。

インパールの時代から、もしかするとそれ以前から現在まで続く日本の悪しき構造の連鎖、それに気づかせてくれる作品。

今起こっているたくさんの問題に私たちは気づき、危機感を感じなければいけない。それがこの映画のもう一つのメッセージかもしれない。しかしそれは、巨悪や人の生死が絡んでいるような大きな社会問題だけの話ではない気がする。

自分とは掛け離れた遠い世界の話だと思いがちだけど、『自分の正義に固執し、自分の中で都合のいいストーリーを作り、ストーリーに合わない要素を切り捨てること』は誰しもやりがちな身近な問題。SNSでもよく見かけるし私もやっていることもあるだろう。人を殺めないまでも、自分の正義を守るために自分の意見と違うものは悪と決めつけ、攻める。また自分を認めさせようとして相手をコントロールしようとする。しかも正義のためにしていることだと罪悪感さえ持つことはない。だからこれから先も自分の信じたストーリーを守るためなら人を貶めることもしていくのだろう。

しかしその理屈は相手も同じであって、自分も同じである、つまりお互いさまなのに、どちらも自分が正義であると、その証拠と言えるものを集めては攻める材料にしようとする。それでも状況証拠(つまり解釈でどちらにも転がる)であって、確実な証拠はみつからなかったりする。相手が、都合のいい勝手なストーリーを作っているのはすぐに見つけて攻め立てても、逆に自分も自分の目的に合うストーリーを描いてることに気づくこと、或いは気づかないまでも自分を疑ってみることはあまりにも少ないんじゃないか。

それが自分の利益のためだけでなく、守るべき人のためになっていると思い込んでいる場合は、罪悪感も無く更に重症。

自分を疑うことは必要で大切だけど、そうなるとますます難しい。

自分が正しいと信じて相手を攻めている間は心はブレずにいられるし、ある意味安心していられる。だけど自分を疑い始めたら冷静ではいられなくなるだろうから。

 

最後まで自分を疑わなかった最上、沖野の叫びは明らかな正義と悪なら決着がつくはずのものが、正義と正義であることからくる救いようのないそんな感情からくるのかもしれない。

最後のシーンで別荘の二階から祖父の形見であろうハーモニカを持ち、検察側でなくなってしまった沖野を見下ろす図、自分の正義の邪魔をする者はたとえ目をかけていた沖野であろうと消す覚悟があるかのようでぞっとした。最上はこれからも検察側にいて、自分の正義を貫き通し、法を犯すことも厭わないだろうから。結局この映画で突き付けられた『正義とは何か』という答えは見つけることはできない。久利生検事の『何が事実なのか』という観点でしか白黒付けられないのかもしれない。

 

そして、原作未読で映画を一度見ただけではわからなかったことをいくつか書いておこうと思う。

一つは一線を越えるに至る最上の心の動き。最上は今までも裏家業の諏訪部をポチにして法を犯すようなことをやってきていたのだろうかと思ってしまったほど。家宅捜索の周到さ(すかさず競馬新聞をポケットに入れたり…)、諏訪部に車や携帯電話を手配する手際の良さ(それも声に出して場所などを復唱する)しかも銃まで手配して人の命を奪うことを選択してしまったから…。最上である木村拓哉がその動揺をトイレで嘔吐することや目で表現してくれたことでそうじゃないのだなとわかったけれど…

そして何故最上は弓岡の方を殺害したのか。どうせ一人殺すなら松倉を殺害した方が早いんじゃないか。それこそ必殺仕置き人みたいに。検事として松倉だけは法によって罰したいということなのだろうけど。

それから、白川弁護士の登場が唐突で何者かよくわからなかったし、誕生日占いにこだわる最上、暴露本を書くために検察に潜入したという沙穂の設定は原作通りなのか、言動が説明的で辻褄合わせのようにも感じてしまった。細かい設定や伏線それぞれに意味があるはずだけど、そのすべてを理解することはできなかった。

インパール作戦の知識がない人にはどう映ったのかも気になった。

 

 

 

そして、原作を読みました。

 

2時間ちょっとの映画という媒体で、上下2巻の小説を表現するには無理もあると思うし、

戦争と政治、少年犯罪やメディアの情報操作など、現代の日本が抱えている様々な問題もからめ、危機感を持って欲しいという意図もあったのだろうけど、いろんな要素を詰め込み過ぎて、一番のテーマである『正義とは何か』という主題がぼやけてしまう危険性もあると思った。それが原作との設定の違いにもあらわれ、たくさんの登場人物の要素や出来事を限られたキャストに振り分け、エピソードをまとめたり他の要素を追加したりした結果、話の辻褄はなんとなく合っていても、どこか不自然さを感じさせてしまうものになっている気もする。原作では実子である娘が妻の連れ子でないといけない必然性も私には感じられなかった。「結婚は出世の手段だ」と言う丹野が政略結婚であるという設定に対する対比の意味合いだったのかもしれないけど。

誕生日占いへのこだわり、沙穂の裏設定、等々も意味を見出そうと考えたけれど、原作を読んだ今では余計にわかりにくくなってしまった。

 

 

原作と違うところを改めてまとめると、主なものだけで

・最上の娘が実子でなく妻の連れ子である

・橘沙穂の裏の顔や幼い頃の経験(友の両親の冤罪事件)

・誕生日占いへのこだわり

・松倉の過去の少年犯罪や兄の存在

・由季の年齢、殺害までの流れ、歌「cry me a river」の思い出

・最上と諏訪部の関係

・インパール作戦

・被害者の次男が暴力団

・丹野の自殺の理由と自殺の手段

・白川弁護士の登場の仕方   等々

 

そして最も違うところは結末!

・原作では弓岡の死体は発見され、松倉は釈放、最上は逮捕される。

まるで違う!

 

原作を読んで感じたテーマはやはり『正義とは何か』ということ。

 

それぞれの正義があり、正義と正義のぶつかり合いであることは映画も同じであるけれど、

原作を読むと最上が一線を越えるに至った心の動き、最上の正義がよく理解できた。

それも検察官であるが故の正義。

 

家宅捜索でもいきなり競馬新聞をポケットに入れたわけではなかった。自分のストーリーに不都合なレシート(つまり、松倉のアリバイを裏付けるもの)を握りつぶしたのが初めての罪。そしてそれに代わる物証が欲しくて更に手を染めてしまう。

 

最後の一線を越えることを決めたきっかけは丹野の自殺であることは映画も同じだけど

映画では丹野は大物政治家である戦争推進派である義父の不正を暴こうとして罠にはめられ、戦えなくなって最上に託した形になっていたが、原作では義父を尊敬し、次期首相となって世の中を変えられるのは義父しかいないと信じて、検察から義父を守るために自分の命を犠牲にすることも厭わず罪をかぶった。どちらも自分の正義のために起こった悲劇ではあるが、死の意味がまるで違う。原作は前向き、映画は後ろ向きの印象。

原作では、命を捨てても理想を現実化しようとした丹野が生きられなかった今を生きてる自分。そんな自分にしかできないことがまだあるのではないかと、大それた行動と知りながら、やはりやるべきだと一線を越える決心をしてしまう最上。

時効で裁けなかった松倉を冤罪という最悪の形で裁き極刑を科し、そのために取り逃がすことになる弓岡にもそれ相当の罰を与える。それが検察官として罪を犯したものを罰するための正義だった。

映画では、インパール作戦から帰還し、真実を小説に書いた祖父のように、大きな不条理に対する反骨精神により、一線を越えることになる。(と、私は解釈した)

 

それに対する沖野の正義。沖野は最初から「正義とは法の遂行」だと言っていた。

松倉をどうしても犯人にしむけたいような最上に疑問を持ちながらも、映画では途中でカットされてた諏訪部の取り調べでの麻雀牌のゲーム。あれを最上が正解したと聞かされ、自分は不正解だったことで、自分の判断が間違いじゃないのかという疑念を持ち、最上を疑うべきでないと考えるに至る。だからこそあれだけあの松倉と対峙できた。

 

しかし結局自分の正義を信じ、法を犯した最上を裁き、冤罪である松倉の釈放を目指した沖野。

弓岡の死体が発見されたことで事件は急展開、最上の逮捕に繋がり、松倉は釈放される。

結果、かつて罪を犯した松倉はその罪さえも再び否認し、のうのうと自由を謳歌することになり、対して法を犯したとは言え、罪を犯した者を罰しようとした最上はアクリル板の向こうで自由を奪われ、それでも沖野を検察から去らせてしまったことだけが痛恨の極みだと言い、今でも正義を見つめ検事で居続けている。その対比を見た時、矛盾を感じた沖野は間違えていないはずの自分の気持ちを受け止めきれず、正義とは何かわけがわからなくなって叫ぶのだ。

 

映画では弓岡の死体は発見されず、共犯者が自主することで松倉は解放されるが事故に見せかけて諏訪部に殺害される。

結果最上は裁かれることなく、丹野に託された正義のために動こうとしている。

そこには対比は感じられず、最上の完全勝利で終わってしまっているようにもみえる。

松倉もこの世にいない今、正義とは何かの沖野の苦悩もはっきり伝わってこないように思われた。

 

『正義とは何か』を自由になった松倉と自由を奪われた最上を対比させることで考えさせようとした原作。

 

監督が結末を変えてまで私たちに伝えたかったことは何だったのか考えてみた。

インパール作戦との関連付け、話を着地させないことによって、日本の悪しき構造は今でも続いていること、そして今後も続いていくのかもしれないという怖さを伝えたかったのだろうか。

答えは結局見つからない。

私の正義は最上の正義か沖野の正義か、その答えも結局簡単には答えが出ない。

言えることは、人は誰しも自分の信じた正義のために行動する。というよりも、

『自分の求める目的を果たすために自分を正当化する『正義』という名の大義名分を作り出す』という点ではどちら側も、誰しも同じなのかもしれないということ。

 

私は『自分を疑うことができる人』でありたいと改めて思った。

そして一本の映画を見てこんなに考えさせられている自分がここにいること。

これこそが監督の求めた結果、思惑通りなのかもしれない。

NAKAMA先行も一般先行も全滅で、やっと電話が繋がった時は完売。

兵庫県立芸術文化センターの特別会員だったため、キャンセル待ちができるということで登録お願いしていたところ、直前になって嬉しい電話が!

しかも大千穐楽のチケットだった!

舞台の感想を早めに挙げたいと思っていたのに、翌日朝、出勤途中のバスの中で大きな地震が起きた。つよぽんはその日のうちに東京に戻ったという情報を得てほっとしながらも、もし地震が昨日だったらどうなってたんだろうと思った。

 そして今日は大雨警報で交通も遮断され、仕事はお休みとなったので情報を流しながらやっとこれを書いている。

災害が起きるといっそうSMAPがいてくれたらと思う。

 


バリーターク

               

暗闇の中にスポットが当たると、ある部屋の中央にヘルメットをかぶった男1(草彅剛)が誰かの物語を叫び始める。全体が明るくなるとそこにもう一人の男2(松尾諭)の姿。

 

食べること、シャワーを浴びること、服を着ること、寝ること、運動、音楽とダンス。

そして、カーテンを開けるとバリータークという村の住人だというたくさんの似顔絵。

その中から所ジョージよろしく住人を選び、なりきって演じる二人。

そんな風に共に繰り返される日々の暮らし。

 

そしてある日、カーテンのそのまた向こうの壁が開き、緑が広がる。その向こうから男3(小林勝也)が現れることで世界は変わっていく。

 

男3とは誰なのか。何のためにやって来たのか。

『命に限りがあることを知らせる存在』

私にはそう思えました。

 

子どもの頃、命には限りがあると知った時の不安な気持ち、でもそんな思いを抱えながら生きることに耐えきれず、そこから目をそらし、考えないように日々の暮らしに追われ、やるべきことをこなしていく毎日。

どこから来てどこへ行くのかなんて考えない。人生の使命は?なんて意識しない。

日々を悔いなく一生懸命に生きるなんて思ってもみない。

繰り返されるルーティンの中で目の前のことをこなしながらただ生きている。

 

バリータークはどこにあるのか。バリータークの住人とは誰なのか。この部屋はなんなのか。特にこの舞台に使われているのは80年代の音楽。80年代と言えばバブルが始まる頃。

舞台上の二人はそんな時代の人々を象徴しているのか。

 

部屋の外からは時々死にまつわる話が聞こえてくる。

興味を持ちながらも外へ出る術をしらない男1、興味を持たないようにしている男2。

自分の名前も忘れてしまった二人の男。

自分のオリジナルの人生を真剣に生きることを忘れ、バリータークの住人と称した与えられたキャラを、ただ漫然と生きる人々、魂の無い体、からだ、殻だ、空だ。

 

命に限りがあることを思い出しそうだけど、思い出したくない気もする。

それが男1の痙攣となって表れているのか。

男3の出現でそれを思い出し、限りある人生を意識した時、もうこの部屋にはいられない。この部屋から出て、男3のところ、死へと続く12秒間。

その時間が本当に生きていると言える本当の自分の人生なのかもしれない。

自分の物語を作っているのは自分なのだから。

 

本当は考えたくない『死』というものを受け入れ、自分の人生を生きることを決めて部屋を出ることを選んだ男1。この部屋に残ることを選んだ男2。そして新たにこの部屋を訪れた小さな女の子。

女の子は命に限りがあることを忘れて(或いは知らず)繰り返させる毎日に安心感を求め生き始めたということなのか。この小さい女の子の人生がどんなものになっていくのか。誰の人生を生きることになるのか。男3が再び現われるその瞬間まで。

 

以上は難解と言われるこの舞台の、私の勝手な解釈だけど、この舞台を見て、もっとちゃんと生きなきゃなと思わされました。

ついつい日々のことに追われて、やっと見つけた人生の使命と思えること、本当にやりたいことが二の次になってしまっている情けない自分。

日々のことも大切だけど、こういうことをいつも意識しながら生きたいと思えた舞台でした。特に災害が続くとまた改めてそう感じさせられます。

ありがとうつよぽん(でいいのかな?役者草彅剛の方が相応しい?

 

汗まみれのハードな舞台。何色にも染まる草彅剛という俳優。役を生きるたびに新しい別の顔を見せてくれる。

役者草彅剛がまだまだ新しい別の扉を開いていってくれることを期待しています。

 


 

はじめに

このSMAPから学んだことシリーズを書き始めた最初の理由は、争いの一つの原因と思われる『同じものを見ているはずなのにどうしてこうも感じ方が違うのか』の答えを知りたかったからでした。前回のブログ『世界中が幸せになれ』では、「人は信じたいことしか見ないから、お互いに意見を戦わせて争っても平行線。それより相手を理解できないまでも否定したりせず、世界に一つだけの花のメッセージ、みんな違ってみんないいを忘れないようにしたい。」ということを書かせていただき、相手を知らないことから偏見や争いが生まれるから、相手を少しでも理解し、自分の感情を整理するために、それぞれの立場の分析もしてみました。

書いてから、「世界に一つだけの花の世界」を望む気持ちが一層強くなりました。

「世界に一つだけの花の世界」とは、みんな違ってみんないい、争いのない多様性を認められる世界。

それは個人の幸せから世界平和にも繋がる世界。

今回は『実践の心理学』と言われているアドラー心理学やコーチング等で教わったことも交えながら、「どうしてこうなった?」までに留まらず、前回までに書ききれてなかった、「どうしたらそんな世界に近づけるのか」というところまで、いろいろ調べて書いてみたいと思います。今(2017年夏)の時点でどこまで書けるかわからないけど。

 

目次

 

 Ⅰ同じものを見ても違って見えるわけ

 Ⅱ争いとは何なのか

 Ⅲ悪口とは何か? 

~非難(悪口)と批判の違い~

 Ⅳ悪口を言っているのは誰か?

 Ⅴ悪口の目的

 Ⅵ変えられるものと変えられないもの

 Ⅶ悪口を言う人との関わり方

 Ⅷ争いの無い世界の住人とは 

~悪口を言わない人の特徴~

 Ⅸ争いの無い世界のための10の方法 

~世界に一つだけの花の世界を求めて~

Ⅹまとめ

あとがき

 

 Ⅰ同じものを見ても違って見えるわけ

 

私だけでなく、『同じものを見てるはずなのに、なんでこうも見え方が違うのか』と感じてらっしゃる方をたくさんお見掛けする。

そこが違うことで起こる争いも多い。争っている現実が悲しくて、その理由を解明したいために、今までいろいろ調べ、『認知の歪み』なども紹介してきたけれど、すべてアドラーの『目的論』に当てはめると理解できるんじゃないかと、今は思っている。

 

『目的論』とは、「人の行動は過去の原因から生み出される」という、過去に原因を追究する『原因論』とは真逆の立場の、「人の行動はある目的を達成するために生み出される」という、今の目的、現在、未来に目を向けるもの。(例えば過去のトラウマからできないのではなく、何らかのこのままでいたいという目的(失敗するのが怖い、勇気がない、めんどくさいなど)から、都合の良い理由を作り出し取り組むべき課題からにげている。)

 

過去の経験が今の人生を決定しているのではなく、今の目的から過去を意味づけて人生を作っている。

過去の出来事、『原因』によって今があるのではなく、その出来事にどんな意味を与えるのか。

「世界がどうあるのか」ではなく、「世界をどうみるか」

 

「人は客観的な世界ではなく、自分が意味づけした主観的な世界に住んでいる。」

つまり、私たちは同じ世界に生きているように見えて、それぞれが意味づけした世界に生きている。

 

同じできごともその意味づけによって世界は全く変わってくる。

 

 

子どもに声をかける時、短所も長所に言い換えて認めてあげるという方法がある。

臆病  ⇒ 慎重

口下手 ⇒ 聞き上手

落ち着きがない ⇒ 活発  etc.

 

その逆で、何でも悪く捉えてしまうこともできる。

一途 ⇒ 頑固、融通がきかない

素直 ⇒ 考えなし、単純 

かわいい ⇒ 幼稚、年齢不相応 etc.

 

同じことをしても『目的』によって声のかけ方も違ってくる。

今頃気づいたの?   ⇔ 気づけて良かった。

走るな!     ⇔ 歩こうね

  そんなことしてたら

   ろくな大人にならないよ⇔これができたら素敵な大人になれるよ

  

だから、

『目的』が、褒めて評判を高めたい人は、何をやっても(真逆のことをやっても)良い捉え方をしてくれる

・番宣しまくる ⇒ ファン、番組を大切にしている

・番宣しない  ⇒ 役作りに時間をかけている

 

・短時間でやる ⇒ 集中力が高い、カンがいい

・長時間かける ⇒ こだわって良い作品にしている

 

逆に、

『目的』が、悪口を言って貶すことである人は、何をやっても(真逆のことをやっても)悪い捉え方をして貶す。

・番宣しまくる ⇒ 必死だな

・番宣しない  ⇒ 何様?

 

・短時間でやる ⇒ やっつけ仕事、なめてるのか

・長時間かける ⇒ 要領が悪い、時間の無駄

 

一つの事象が、『目的』によって、称賛の種にもなり、非難の対象にも成り得る。

 

その感じ方、その表現は捉え方によるというより、どう捉えたいか。

結局は『目的』次第でどんな捉え方にもなる。

 

 それぞれの『目的』に合わせて、本人の意図していないことでも、勝手に都合よく解釈され、それを鵜呑みにした人の利害と一致すると拡散されることもある。

 

例えば警察の取り調べも、裁判も、有罪前提にされると、その思い込みによって、何でもない偶然が証拠や裏付けに捉えられ、冤罪を生んでしまうことになりかねない。

 

これはアドラー心理学の中の理論『認知論』にもつながる。

「人は誰もが自分特有の色眼鏡をかけて世界をみている」というもの。

 

「人は客観的に人やものを捉えるのは不可能。誰もが自分だけの眼鏡で見ている。」

客観的事実を述べているつもりでも、主観的な自分特有の意識フィルターを通して、私的理論に基づく自分のものの見方で物事を判断している。

 

つまり、

人は誰もが今の自分の正統性を証明するという『目的』のため、その証拠を求め、『自分の眼鏡を通して』物事を見、目的に合致するものだけを選択し、それに反するものは消去している。

 

信じていることが違う場合、正統性を証明するための集めたい証拠も違うので、同じ物を見ても、それぞれ都合のいい解釈をし、捉え方が違ってくるのは当然。

 

それが『同じものを見ても違って見える』理由だと思われます。

 

そして、その証拠集めが、好きなものや人の良い所をみつけようとする行為なら素敵なことだけれど、良い所の証明をしながら、暗に『それに比べて…』というのを感じてしまうと嫌味になり、かえって敵を作り、逆効果になってしまうこともあるだろうし、

その上、自分が正しいことを証明するために、相手が悪いという証拠を一生懸命みつけようとするようになってしまうとホントに悲しい。

 

『目的』が「褒める」ことである人は、例えその人が何かしでかしたとしても、「報道は信じない(or 誰にでも失敗はある)」「人間性を信じている」「そんな人じゃない」という見方をしているように思う。

逆に「貶す」ことが『目的』の人は、何をやっても貶す理由を探して、或いは都合のいい解釈で曲解して悪口を言うので、悪口を言われないように言動に気を付けたところで最初から結果は決まっている。

自分のフィルターを通した目的に合いそうなネタを見つけて呟くと、同じ目的の人たちは元ネタを確認することなくその解釈に同調する。攻めていながら、ネタができたことを喜んでいるようにさえ見えることがある。よく知らない人たちも「そんな人だったの?」となってしまう。

例え良い噂や報道、言動があったとしても、「誤解してた。ゴメンね」とはならず、自分の『目的』とは合わないために「そんな人間じゃないのによく言うよ」「今更なに言ってんの?本性はわかってる。」となってしまう。

 

 

この半年ほどの間で「新しい地図」のプロジェクトも始まり、ABEMATVで番組がオンエアされ、SNSも始まった。そして映画など、次々に新しいことを始めている三人だけど、ネットを覗くと、称賛の声と同時に、「新しい恥図(痴図)」などと、言っている人々も見受けられる。

 

「賛否両論」と言うけれど、目的論から考えると、「賛」か「否」かは視聴したり体験する前から決まっている場合も多いように思う。(このブログも読む前からツッコミどころを探して悪口を言うことを目的に読み始めてる方もいらっしゃるかもしれない。)

 

 その目的によって、良い人でないと持論が崩れる人たちと、良い人だったら持論が崩れる人たちで、同じものでも注目するところ、印象に残るところ、捉え方が違う。

 

よっぽどの極悪人か、神のような聖人でなければ、100%短所だけの悪人も100%長所だけの善人もいない。

誰もがいろんな面を持っているのに、注目していることが人の良いところでなく、悪者探しやあら探し、マイナスばかりになってしまったら悲しい。

 

私たちは皆どこかしら欠点を持つ不完全な存在。だけどそれぞれありのままの輝き、魅力も持っている。

(それが「クソ野郎と美しき世界」の意味?)

そしてそれをお互いが認めあってるグループの一つがSMAPだったんじゃないかと私は思っている。

 

 Ⅱ争いとは何なのか    

争いの無い世界を考える前に、そもそも「争い」とは何なのか

国語辞典によると、

 

争うとは…互いに相手に勝とうとする。何かを得ようとして張り合う。

 

とある。

 

つまりどちらが上か、どちらが正しいのか、人と比べて優位に立とうとするナンバーワンをめざす世界。

比べることのない、みんな違ってみんないい、オンリーワンの、世界に一つだけの花の世界は、争いごととは無縁のはず。争いが起こると言うことは、違いを認めない、多様性を認めないということ。

自分の考え方と違う人を見つけると、自分が正義であると悪口を言って攻撃してしまう。

 

だけど「本当のことを言っても悪口になるの?」という疑問も出てくる。

そもそも何が正しいか、ホントのところは当事者しかわからない。それが客観的事実なのか勝手な主観的解釈なのか区別がついてない場合もあるけど、事実と違うことで非難されたり、明らかな嘘を拡散されたり、悪意ある言動をするものがいたら、反応して「私は泣き寝入りしない。真実を言う!間違いを正して何が悪い」ときっぱりと否定したくなるのも当然だろうし、それが主観だったとしても間違っていると思うことは間違っていると言いたくなる。

それも悪口になるの?

そもそも何が悪口で何が悪口でないのか?

悪口の定義が人それぞれなので気づかないうちに人を傷付けている場合もある。

 

ここからは、具体的に悪口とは何なのかを考えてみたいと思います。

 

 Ⅲ悪口とは何か? ~非難(悪口)と批判の違い~

国語辞典による各言葉の違い

・悪口…人を悪く言うこと

・非難…欠点やあやまちなどを攻め、とがめること。

・誹謗…そしること。悪口をいうこと。

・中傷…ありもしない欠点や失敗をわざと言いふらして人を傷つけること

・罵詈雑言…ひどくののしること

 

・批判…作品・人物・説明・事態などを批評して正しさ、良し悪しを判断すること

・忠告…まごころで人をいさめること

・反論…反対する議論

・指摘…それと指し示すこと

 

他の文献も参考に、上の5つ(以下「非難」)と下の4つ(以下「批判」)の違いをみてみると

・「非難」の『目的』 

  ⇒『相手を攻撃し、貶める(おとしめる)

  こと。』客観性を欠き、感情的 破壊的

   その時はストレス発散になってすっきり

     しても、結局は争いを生む。

・「批判」の『目的』 

  ⇒『よりよく改善すること。』客観性が

   あり建設的。気付きと成長に繋がる。

 

だから、「真実を示す」など、内容が同じでも、『目的』が何かによって悪口かそうでないかが違ってくる。

 

例えそれが本当に客観的事実に基づいたものであっても、世界に一つだけの花の世界の住人、多様性を認められる人は相手の人格まで否定するような、叩き潰すような言い方はしない。ただ相手に勝ちたい人同士が出会ってしまうとそこに争いが生まれてしまう。

非難(悪口)か批判かは、傷つく人がいるならそれは悪口なのであり、厳しい意見でもそこに愛があり、言われた側に気づきがあるならそれは悪口ではない。

 

つまり、その内容では無く、

 

悪口かそうでないかは、発信者の意図、『目的』が、「貶めること」か、「改善」かにあるようです。

 

正論も、真実も、目的が何なのによって、伝え方、表現の仕方も変わってくる。悪口にもアドバイスにもなる。

 

争いを嫌い、この状態を憂いている人たちの

「悪口を言わないで」という訴えも多くみかけることがある。

けれど、そう訴えている相手、悪口を言っている人はいったいどこにいるのでしょうか?

 

Ⅳ悪口を言っているのは誰か?

私は人から聞いた評価や噂で人や物事を判断したくないと思っている。

その人の主観や意図というフィルターを通した評価が、自分の感じ方と同じだとは限らないと思うから。

実際、低評価の映画や演劇でも、観ると面白かったこともあったし、実生活でも、評判の悪い人と仕事で組まされた時、良い所もたくさん持っている人だったりする。

 

結局人に悪い評価をつけ、毛嫌いし、その人をストレスの元だと非難している人は、自分でストレスを作っていると言えるのかもしれない。

それに悪口を言ってその人を下げているつもりが、「悪口を言う人」という印象を周りにつけてしまい、逆に自分の評価を下げてしまっている場合もある。

そして、悪い噂を流された側も、自尊感情や貢献感が得られず、ストレスを感じることになる。

外から見ると、どちらも悪い人ではなく、単に相性が合わないだけなのに、当事者同士は相手を悪い人間だと嫌い、お互いにストレスを感じ、お互いが自分は被害者だと思っていたりする。

 

私も以前、そんな辛い思いをしたことがある。

だけどアドバイスに従って考え方を変え、私を嫌っているその人を尊重するようにしたら(もちろん迎合して自分を捨てるということではない)流れが変わり、楽になった。いまだにズレを感じることはあっても、今では問題なくやっている。

それでも一度「この人はこういう人」と思われてしまったら、なかなかそれを覆すことは難しい。

ついてしまった固定観念は、知らず知らずにそれを立証する証拠集めをしてしまうこととなり、ますます思い込みや偏見を強化してしまう。

 

だから同じような言動に対しても、発信者によって評価を変え、知らず知らずに自分の信じたことを強化するための材料にしてしまっていても自分では気づいていないことも多い。

 

・好きな人や仲間が間違ったことを言う 

   ⇒勘違い、記憶違いだよ、そんなこと

    もあるよと優しく訂正。

・嫌いな人や仲間以外が間違った事を言う

 ⇒嘘つき!真実はこうだ!情報操作して

     何を企んでる。覚えてないなんて失礼だ。

となる…。

 

実際

私も体験したことがあった。

職場で力のあるグループの人たちが、人のちょっとした失敗は攻め立てるのに、同じグループの人が同じような失敗をしても何も言わない。

 

自分自身がやってしまっていたこともある。

後ろからちょっかいを出されて、知らぬ間に犯人を推測し、怒りの感情が湧き出ていたのに、振り向くと仲良しの相手で、その怒りの感情がすっと消えた時、自分が人によって対応を変えていたことに気づかされ、ハッとしてショックを受けたと同時に反省もした。

 

このように、一見マイナスと取れるような発言をしているのを見ても、同じ仲間の意見なら同調してしまい「そうだ、そうだ、よく言ってくれた。真実は明らかにしなければ」となるが、考えの違う人にとっては、それは「悪口を言う過激な人たち」となる。

 

だから悪口を言っている過激派はいつも相手側であり、自分たちが言ってるのは真実であって悪口ではない。

「悪口を言われてる被害者は私たち」とお互いに思っている。

ということは、悪口を言ってる自覚のある人はほとんどいないのではないか。

 

たまに、単なるストレス発散で悪口を言ってる人たちや、注目されることが『目的』の人など、悪口を言っている自覚のある人たちもいるにはいる。そういう人たちは反応してもらうことが目的なので、目的を果たすことができたら、ますままエスカレートするだけだし、その人には、「悪口を言わない」という課題よりも前に、解決しないといけない課題がある場合が多いので、わざわざ相手の目的を果たすお手伝いをして反応し、悪口を言い合い、こちらがストレスを溜める必要はない。

 

悪口を言っている自覚のある人はほとんどいない訳だから「悪口をいわないで」という訴えは誰にも響かないということになるし、何なら悪口を言っている人が「言わないで」発言や、そういう発言をRTしているのを見て驚く場合すらある。それほど自覚がないのだ。

 

本人にしかわからないことも勿論あるけれど、自分のことはわからないものだ。

私も常々なるべく憶測や片寄った考えで発言したくないと思って注意しているつもりではいるけど、知らず知らずにやってしまっているかもしれないし、精神を安定させたいために自分の都合のいい解釈もしているだろう。

 

「悪口をいわないで」という訴えが誰にも響かないなら、悪口がなくなることはあるのだろうか?

 

悪口の目的をもう少し詳しくみてみたいと思う。

 

 その2 

Ⅴ悪口(非難)の目的 に続く 

Ⅴ悪口(非難)の目的   

1称賛の欲求

  …周りや相手に自分の価値、価値観を認め

  させて自尊心を満足させたい。優越感を

  得たい。プライドが高く、自分の価値観

 が絶対で他の価値観を否定し認めない。

  傲慢。

2報復、応戦

  …プライドを傷つけられた、自分を否定さ

 れた 時、真実と違うことを言われた時、

 自分が迷惑を被ったと感じたとき(金銭的、

 時間的、精神的など)誹謗中傷を言われた時

 等、相手に自分の非を認めさせ、屈服させ

 たい。権力争い

3保身

   …価値観を変えることを強いられる危機

  感、められる危機感から、相手を攻撃

  して自分を守る

4嫉妬

   …自分を評価してくれない時、自分がス

  キルップするより相手の評価を落とそ

  うとする。

   自分の価値を上げるために相手を下げる。

5歪んだ仲間意識

   …悪口を言い合うことで一体感を得る。

6注目喚起

   …良いことで特別な存在になることを諦

  め、視されるより悪いことででも特別

  な存在なろうとする。

  かまってちゃん。

7ストレス発散

   …精神的に不安定。ただのイライラ解消

  のために攻撃する。相手の反応を楽しみ

  たい。

 

どちらにしても悪口の本質は、相手に勝利し優位に立ちたい、手っ取り早く屈服させたい、特別な存在であると示したいと行っている行為。

不満の表れ。承認欲求。それが争いに発展していく。

 

こうしてみると、今までは、○○派 対 △△派の戦いのような構図だと思っていたけれど、○○派の中にも、△△派の中にもいろいろな考え方の人がいて、ある人の言動がそのグループの総意ではないし、その人はグループの代表でもない。実際「やめて、一緒にしないで」と嘆いてる人も多い。

 

○○派 対 △△派の戦いではない。

一つの価値観だけに固執し、自分の信じたもの以外を排除しようとする者同士、物事を原因論で捉え、悪者探しをしないといられない者同士、共同体感覚を大切にするのでなく、競争原理の中に生きている者同士

 

つまり、『多様性を認めない人同士』が争っているのではないかと今は思い始めている。

 

相手より優位に立ちたい、勝ちたい、自分の方が正しいと認めて欲しいと始まる争い。

ところが、その場では相手をやり込めてすっきりしたように感じても、その『目的』とは逆に自分の価値を下げ、周りから人を遠ざけ、成長を妨げ、ストレスを増幅しているのに、そのことになかなか気づかない。

自分が口喧嘩をした時のことを思い出してみても、結局目的は達成されず、新たな争いに発展するだけ。誰も幸せになっていない。

 

 

Ⅵ変えられるものと変えられないもの

違う考えの人と出会った時、争いがなくなるためには意見の統一、価値観が同じにならないといけない。そのためには相手の考え、価値観を変えなければと、出会ったからには相手を黙らせるまで、相手が考えを改めるまで、自分の価値観を正しいと認めるまで、一人ひとり潰していく。天下統一のために!と思った時期も正直あった。

戦国時代のように平和のための戦(いくさ)、天下統一のための戦(いくさ)とばかりに、自分の言い分を主張して考えを改めさせようと相手を攻めても、人は一度信じてしまったことは余程のことがない限り考えを変えないし、自分の信じてきた価値観を変えようとする圧力を察知すると、それに抵抗しようとして余計かたくなになるもの。

何故ならそれを受け入れるということは、今までの自分をすべて否定することであり、今まで仲間だった人も手放さないといけなくなる。人は皆このままでいる方が楽なのだ。

自分だってそんな圧力をかけられたら不快だし抵抗してしまうだろう。お互い様なのだから無理があるのは想像できる。正しいことでも、攻撃的になったり皮肉的になったりしてしまっては却って敵が増えてしまう。

争いを終わらせようと挑んだ結果、結局争いはエスカレートし、笑顔とかけ離れた人生を自ら選んでしまうことになる。

 

悪口ではなく真実であると言う人の中に

「ほら、あなたが好きなあの人は実はこんな人なんですよ。騙されないで」と忠告してくれる人もいる。

でもその根底にはその人が良い人だと証明されたら自分が信じている持論が崩れてしまうというのがあるのかもしれない。

本当に親切心でそんな忠告をしたとしても、その人を好きな人たちは、人を好きになるポイント、つまり趣味がそもそも違うし、忠告という形で否定をしている人よりもよっぽどその人をみている。それに良い所しか見ていないからそんな捉え方はしないので、そんな忠告は意味がないことの方が多い。人の旦那さんの悪口を奥さんに言うのと同じで、言うだけ無駄で大きなお世話になっている。

それは自分の好きな人の悪口を言われた時と置き換えると理解できる。

 

それに対して「自分の都合のいいところしか見ない。理解力がない。思い込みが激しい」などと相手を攻めることは自分に呪いをかけているのと同じ、人は誰しもそういう傾向があるのだから必ず自分に返ってくる。

 

それでもやっぱり、その人のために愛ある忠告をしてあげるべきだと感じた場合、相手にどのように伝えるか(DO)も大切だけど、伝える側の在り方(BE)も大切な気がする。

愛するやり方(DO)が技術的にできたとしても、それが伝わるかどうかは愛する在り方(BE)かどうかが前提となっているように思われる。

同じ内容でも「あなたに言われたくないわ」となるのか、「あなたの言うことなら」となるのか。どっちのあなたに自分がなれるのかも気をつけないといけない。

私も「おまえが言うな」とならないよう、精進しなければ。

 

 

そして逆に自分が忠告を受けた時、受けとる自分にも準備が必要になる。

「人は今の自分を肯定するために、このままでいい材料を探しながら生きる傾向がある。」

とアドラーは言っている。

人の意見を受け入れて価値観を変えるということは勇気がいることで、ある種のプライドを捨てる覚悟もいること。北風と太陽のように、変えようとする力が強いほど、それに抵抗しようとする力も強くなる。

TVで見かける、右回りにも左回りにも見える「シルエット錯視」の映像も、一度右なら右と思ってしまうと、そこから抜け出すことは容易ではない。

言われる立場から言うと、結局自分で気づくしかない。進化し、成長できる人は気づくことのできる、変えられるものを変えていく勇気のある人なんだろう。

『目的』が「攻撃」でなく「改善」である人に対して、私のために言ってくれてると受け取められる自分でありたいと思う。

 

『他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ』と言われるけれど、

変えられないという過去も、起こったこと自体は変えられなくても、目的論から考えると、今に折り合いをつけて信じていることを揺らぎないものにしたいために、過去を自分の中で変えて生きていると言えるかもしれない。自分の中で巧妙に編集され『目的』に合った物語にしてしまっているのだろう。

「過去の経験にどのような意味を与えるか」それはザワザワしたりモヤモヤした心を安定させるために必要なことかもしれないし、私自身もそうやって心を落ち着かせてきた。だけど、過去にとらわれて悪者探し(それが自分のせいだと思うことも含め)をし、都合のいい原因をみつけてそこに固執しても、そこから先には進むことはできない。

逆に考えると、目的によって見え方感じ方がそれぞれ違うなら、視点を変え、目的を見直せば、変わることができるということ。

例え辛かったと記憶している「過去の出来事も、解釈・意味づけを変えることで今が変わり、未来を切り拓くことができる。」

進むためには「どうして?」(過去)でなく、「どうするか」(未来)が必要。

本来の目的に立ち返り、そのために今何をすればよいのか。

「人生の意味はあなたが自分自身に与えているものだ」

これからどう生きるのか。

 

自分が優位に立ちたい、(自分の考え、信じていることが正しいと認めさせたい)という『目的』のために、相手を変えることが必要だという思い込みから自分を解放し、多様な価値を認め、現状を受け入れる。さらに本来の目的を見つめ直し、現状をプラスに捉えて前に進む原動力に変える。そうすることで道は開けてくる。


過去に固執するのでなく、現在と未来のことを考える。目的に向かって何をすべきか考え、幸せな未来を自ら作っていく。それが『目的論』。それは決して過去を否定することではない。

 

結局未来を変えられるのは自分。でも「人格を変える」などと大袈裟に考える必要はない。考え方を変えるだけ、まずは発する言葉をプラスにするだけで流れが変わると、コーチングの先生にも教わった。(そのおかげで私も苦手な人とも問題なく接することができるようになったわけですが)

つよぽんの言葉に『嫌いな人がいる場合は、その人を受け入れられない自分の中の未熟な部分に目を向けたいと思う』というのがあるけど、嫌いな人が多いほど、人生は生きにくくなるし、辛くなるようにも思う。

わざわざ自分でストレスを作ることはない。

他者を無理やり支配したり服従させたり、操作(コントロール)することはなかなかできないけれど、自分を変えることはできる。自分が変わることによって、他者や環境が変わることはあるかもしれない。でも相手が変わるか変わらないかは相手の課題であって、変わらないからと腹をたてる必要はない。

人の悪いところや自分と違うところを探して攻めて生きる人生より、多様性を認め、良い所をみつけて笑顔でいられる人生を選びたいと思います。

 

『憎しみを燃やして生きる糧にするより、悔しいけど受け入れて、明日笑う方がいいさ』(♪手を繋ごう)

 

Ⅶ悪口を言う人との関り方

それでも悪口や嘘を言われると応戦したくなり、争いが生まれる。他人と過去は変えられないなら、争いに発展しないために悪口を言う人にどう対応すれば良いのか。相手の目的にも注目して選択する。

 

1相手にしない。距離を置く。言わせとけ (目には目をでは相手と同じ)

「あなたはそう思うのね」とスルーする。 

2直接話をし、確かめる。根拠や目的は何か

    を明らかにし、誤解を解く。

3相手の立場に立って考え、自分に非がある

  部分は素直に謝まり、改善できる機会に

  なっことに感謝する。

4周りを不快にしていること、自分の評価を

  下げていることに気づいてもらう。

5話題をプラスの方向に変える。相手を承認

  する。

6伝える時はyouメッセージ(おまえは◯◯だ)ではなく、lメッセージ(私はこう感じた、こうして欲しい)で伝える。

(youもIも決して十把一絡げで複数形にしない)

7 信頼できる人に相談する。etc.


「悪口を言われたら言い返したくなる。そういう感情を持つのは当然でしょう。感情は自然なものだからどうしようもない。」

そんな風に思っていた頃もあったけど、人は何かに反応して生きているのでなく、選択の連続で生きている。

相手の言動に対する表現も、「腹をたてて反論する」「スルーする」「一旦受け入れて考える」「認めて謝る」などの選択肢の中から自分が選んだ結果であることもコーチングで教えていただいた。

相手の出方次第で人生が決まるのなら、それは自分の人生を人に委ねていることになる。

相手がそうであるように、自分の感情にも目的がある。その中に隠れた一次感情(不安、心配、くやしさ、悲しさ、焦り等)を探り、素直にIメッセージ[You(お前)は〇〇だ!でなく、I()は悲しい、私はこうして欲しい。等]で素直に伝えることも一つの方法かもしれない。

 

「自分の人生を代わりに生きてくれる人はいない」

自分の人生は自分で選ぶ。

一つの意見に対しての反応も自分の選択次第で良い出会いにも最悪の出会いにもなる。

 

「対人関係のカードは自分がにぎっている」

自分はどんな選択をするのか。良い選択をしていきたい。

その選択が、相手の目的を別の形で達成するお手伝いになるのなら、なお良いのかなと思う。

 

 

Ⅶ争いのない世界の住人とは? ~悪口言わない人の特徴~

それでは、悪口とは無縁の、争いのない世界に住む人はどんなタイプの人なのかいろいろな文献からまとめてみた。

 

・自分の価値基準を押し付けるような傲慢さは無く、多様な価値を認められる。

・勝ち負けにこだわらず、他人と自分を比べることがない。妬まない。

・他者からの承認に依存せず、ありのままの自分を受け入れ、自らを承認できる。

ありのままで価値があることを知っている。貢献感がある。

「何が与えられているかでなく、与えられているものをどう使うか」

・他者に関心を持ち、良い面に着目して長所をみつけるのが得意。

一見悪いこともプラスに受け止め、前に進む勇気がある。

・物事を人や環境のせいにする(被害者意識)ことがなく、問題解決能力がある。

・客観性があり、物事を他者の目線で捉えられる「共通感覚」が持てる。人の気持ちを想像できる。

・批判を素直に受け入れ、自分の成長に繋げることができる謙虚さがある。

・感謝がある。人に貢献感を与えられる。(人に対して「勇気くじき」ではなく、「勇気づけ」ができる)

・悪口による影響(自分の品を下げる、人が離れていく、成長を妨げる、未熟さの露呈など)を理解している。

・精神的に安定していて感情的、攻撃的にならない。

Youメッセージではなく、Iメッセージで伝えている。

(お前は〇〇だ!→私は悲しい、私はこうして欲しい。等)

 

悪口を言う人の多くは、競争原理の中で生きているという。

本来、ありのままで価値があるはずなのに、ずっと人と比べられ、褒められたり叱られたりしながら勝つことを要求される環境の中にいると、人より秀でたところがないと認められない、愛される価値がないと思い込んでしまう。その結果、自分を守り、有利な立場になるために、争いが起こってしまう。

(実際、叱ることも、褒めることさえもアドラーは否定している)

私もそれが当たり前の環境だったから、普通の事だと思い込み、競争原理の中にいることに気づいていなかった。

争いにならないまでも、叱られないと動かない、褒められないとやらない、代償を常に求め、人に人生を決めてもらっている。本当の意味で自分の人生を生きていない。耳が痛い話だ。

特別である必要はない。争う必要はない。自分の価値観を絶対的なものにし、勝つために、相手を否定する必要はない。

みんな違っていてあたりまえ。それぞれがありのままで尊重される存在であること、周りは敵ではなく仲間である(価値観、考え方が同じであるという意味でなく)という、多様性を認め合える、共同体感覚を持つこと。

それが争いのない世界の住人の基礎にある考え方であるようです。

「息をしているだけで美しい」(♪KISS is my life)はずなのです。

 

この四月に転勤となり新たに出会った若い同僚へもいつか伝わったら嬉しい。

「周りにいる私たちは敵ではなくて仲間だよ」と。

周りは、自分が一番仕事のできる優れた人間であることを証明するための敵、欠点や失敗を見つけて自分より劣っていることを示し、安心するための素材ではなく、適材適所、分業して一つの目的を達成するための仲間だよと。

 

その3 

Ⅷ争いのない世界の住人になるための10の方法 ~世界に一つだけの花の世界を求めて~ へ続く

 

Ⅷ争いのない世界の住人になるための10の方法 ~世界に一つだけの花の世界を求めて~

では、そんな争いのない世界、多様性を認め合える、ナンバーワンでなくオンリーワンの、みんな違ってみんないい世界の住人になるためにはどうすれば良いのか以上のことからまとめてみる。

 

1価値観は一つではなく、いろいろな捉え方があることを認め、自分の価値観が絶対であると押し付けたり、相手の考えを変えようと躍起にならない。

2競争原理でなく、協力原理に基づく共同体

  感覚を身につける。

(他者は敵でなく、仲間である。人は全体の

  一 部であり、共に生きている。競争、比

 較でなく、本来の目的に立ち返り協力する。)

3他者に関心を持ち、物事や人、そして自

  分の、悪いところでなく良い所に目を向

  け習慣をつける。

4どんなことも傷つけてよい理由にはならな

  いことを肝に命じる。

(非難されて当然、いじめられて当然、被害

  を受けて当然、殺されて当然、の人など

  いない。)

5ブレイクスルー発想(物事をプラスに受け

 止め、原因ではなく目的、過去ではなく未

 来「どうして?」でなく「どうするか」)

 を身に着ける。

6発言する前に一呼吸おく。

(書いてみる、6秒待つなど、自分の感情、

  考えが主観的な私的論理からきている自覚

  を持つ)

7相手の立場を自分と置き換えて考えられる

  客 観性、共通感覚、想像力を持つ。

8「ありがとう」を口癖にする。 

  笑顔を忘れない。

9悪口を言う人の仲間に入らない。

10 Youメッセージではなく、Iメッセージで

  伝え(お前は〇〇だ!→私は悲しい、

  私はこうして欲しい。等)

 

 

 

何をするにも在り方(BE)が前提ではあるけれど、やり方(DO)を意識的に変えることであり方(BE)も変わってくるという。

発する言葉を変えるだけでも流れは変わってくる。

運を高める言葉でもある「ありがとう」「大丈夫」「素晴らしい」「嬉しい」「助かった」などを口癖にしたい。

一見良い言葉かけに思える「えらいね」などの誉め言葉も、立場の上の人が下の者を評価して発する、競争原理の中の言葉であり、その目的は「操作」ということらしい。言葉選びも気をつけたい。

 

Ⅸまとめ

このブログをまとめた目的は

 

世界に一つだけの花の世界、 個人レベルから世界まで、争いのない笑顔あふれる世界になって欲しいため。そこで学んだのは、


争いがなくなるためには全員が同じ意見、同じ価値観にならなければいけないわけではない。

そんなことは不可能と言っても良い。自分の価値観だけが善であると思い込み、それを人に押し付けようとするから争いが起こる。

「あなたはそう思うのね」と、「多様性を認め合うことができる世界」になれば、価値観や意見が違っても争いはおきないはず。人は一人では生きていけない。多様さこそが豊かさにつながる。

 

どの世界にもある、個人レベルの口げんかも、ネットやSNSの違う価値観の主張し合いも、そして国家間の戦争も、根っこは同じ気がする。

文化も習慣も考え方も能力もそれぞれ違う。『目的』によって、同じ物でも見え方、捉え方も人それぞれ違う。


違いを探して攻めるのでなく、それぞれの魅力に気付ける自分でいたい。

人が笑顔でいられることを、人の良い所をみつけることを習慣にしたい。

 

アドラーも戦争体験から世界から争いをなくしたくて心理学を研究したという。

戦争を食い止めるためには、人間を信じ、競争原理から協力原理、共同体感覚を育てることだと言っている。

個性とは相対的なものでなく、絶対的なもの。


競争原理の世界にいたことに気づき、特別でないと愛される価値がないのではない、ありのまま、そのまま、存在するだけで十分価値があるということを、伝えていくこと、そして自分自身もそうした存在であることを認めてあげること、共同体感覚(他者は敵でなく、仲間である。人は全体の一部であり、共に生きている。)を身につける。


この『共同体感覚』こそが、争いをなくすためのキーワードのようだ。

 

「まずは目の前の人に信頼を寄せ、仲間になること、目の前のそこから始める」

自分自身の争いからまず解放されなければならない。

そんなの単なる理想論、『キレイゴト』『偽善』しか思えないかもしれない。

実践できれば世界が変わると言われているアドラー心理学。

でも、未だに世界平和は実現できていないことを考えると、「実践の心理学」とは言え、これはシンプルだけど実践するのは容易ではない。勇気のいる課題。

お花畑な考え方と言われても、そうすることでストレスなく幸せに生きられるなら、それは人のため「利他」というより結局は自分のためでもある、実は「利己」。

お互い笑顔でいられるなら、その選択もありなんじゃないかと思う。

お花畑には奇麗な蝶々が飛んでくる。腐ってゴキブリしか寄ってこないような人にならないようにしたい。

 

『争いの無い世界はきっとかなわない夢としても、哀しみを減らすことは少しくらいできるはず』(♪手を繋ごう)


理想に向かって前進することはできる。

子育てや家庭、仕事場でも活かせる心理学。

せめて自分と、自分の周りからでも幸せな世界が広がっていって欲しい。

 

みんなの小さな一歩が、小さな信頼の積み重ねが「百匹目の猿」の原理で、いつか広がり、世界中が幸せになって欲しい!

 

世界一つだけの花の世界は まずは、かつて同じものを愛した私たちから始められたら嬉しい。

 

だからと言って、「ほら、言われてるぞ、聞いとけよ」と言う人が増えて欲しいわけではない。

他人と過去は変えられない。「自分もそういう部分があるかも」と自分を見つめなおす機会になってくれたら嬉しい。発する言葉や見つめる視点からでも変えてみようと試みる人が増えて欲しい。

でも、そう思うことも人を変えようとする傲慢な態度かもしれないけど。

 

「変えることができるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えられるものと変えられないものを見分ける知恵を授けたまえ」(ニーバーの祈り)

 

私もチョイスする言葉や考え方を変えようと意識し始めた。思わず出てしまうことはまだあるけれど。

 

・えらいね ⇒ ありがとう

・そんなこと思う(する)なんて信じられない

    ⇒ ~と、あなたは思うのね。

・わかって ⇒ わかりたい

・でも ⇒ だから

・なぜこうなった? ⇒ これからどうする?

(失敗は誰にでもある。自分ができることは       やる。仲間の得意分野は任せる。)

 

 

今、目の前にあることから始めようと思う。

そしてそれぞれの今を、自分自身を、応援していく。そうすることで未来は変わっていく。そう思いたい。

 

 

あとがき

 ここまで読んでくださった方に、まずは感謝したいと思います。ありがとうございました。

仕事も、出かける予定もない週末、家事の合間を縫って書いては消し、書いては消し、コツコツまとめました。

ちょっと本を読んでかじっただけの私がアドラーを語るのはいかがなものかと正直思ったりもしましたが、これが今の私の思いです。

このブログを書こうと決めてから書き上げるまで、半年以上。ずいぶん時間がかかりました。

その間にいろいろな事件やできごとがありました。仕事や私生活での経験、ドラマやTV番組、本や映画や舞台、にも影響を受けました。

新しい地図の活動、草彅剛出演のNHKスペシャル未解決事件「赤報隊」、柿喰う客の舞台、映画「グレイテスト ショーマン」や鹿児島の知的障害者施設しょうぶ学園のドキュメンタリー映画「幸せは日々の中に」、アカデミー賞受賞した「シェイプ・オブ・ウォーター」等

 

「マイノリティー」「ダイバーシティ」「ノーマライゼーション」「インクルーシブ」などの言葉も一般化し始め、「みんな違ってみんないい」の考え方が広がりつつあるように感じます。

障害者施設のドキュメンタリー映画「幸せは日々の中に」の中の言葉「ノーマルってなんですか?」が印象に残っています。

「普通って何?」「違うことはいけないこと?」普通であること、更には特別であることに価値をおくのではなく、私であることに価値をおく。それでも私は私「THIS IS ME

それぞれのありのままを、多様性を認められる世界が求められ始めている。世界はその方向に向かってきている。そう思いたい。信じたいと思います。

 

そして最後に

SMAPのことでショックを受け、何も考えられなかった時期もありました。だけど、このことがなかったらここまで考えることも調べることも気が付くこともなかったかもしれない。この悲しく辛い経験を無駄にしたくない。ピンチをチャンスの精神を教えてくれたSMAPに感謝したいと思います。

 

この先どうなるかわからないし、それぞれが笑顔で夢を叶えていってくれること、幸せでいることを望んでいるけど、その先にある約束の場所が私の夢と同じならこんなに嬉しいことはない。意見の違う人もいると思うけど、それが私の今の正直な気持ちです。

((2018年 春)

 

 

参考文献

「嫌われる勇気」

「幸せになる勇気」

「人生の意味の心理学」

「アドラー心理学」

「流れを変える方法」

「国語辞典」 他