ふむふむほう。
これが噂の手相なるものか。
見れば見るほど面妖なり。
娘さん、小生に手相を見せてくれてどうもありがとう。



かねてより巷間を賑わす、手相なるものがあった。
初めて、その光景を目にしたのはたまたま通りかかった、とある辻でのことである。
ぢっと見つめる者の悦に入ったようななんともいえぬ表情と、見られる者の、不安げでいてどこかもの欲しげな態度が周囲に摩訶不思議な高揚を与えたのを覚えている。

以来、並ならぬ関心を持った。
かくも人心を惑わす手相なるものの、一体全体、正体はいかなるものなのか、一度確かめたいと思い、思い長じて先ほどの娘さんに声をかけた次第である。

娘さん、手相を見せてくれないか、と。

ひとしきり眺めながら、ふんふん悦に浸っておると、娘さんはなにやらじれた様子の後、いかがでございますか?と問う。

恥ずかしながら小生、手相なるものを見るのはこれが初めてで、これが他の手相と比べていかがなものかは皆目検討がつかないのです。

正直に答えると、娘さんはたいそういぶかしみ、とっととどこかへ行ってしまわれた。

しまった。
何か作法があったのか。
せっかく好意で差し出された手相であったのに、恩を仇で返すとは正にこのこと。
結構なおてまえで、とでも言えば良かったのかもしれない。

申し訳なさと、己を恥じる気持ちが瞬時に湧いたが、生来お気楽な気質のためそれもつかの間のことだった。

娘さん、小生に手相を見せてくれてどうもありがとう。

さて、どうやら手相とは茶の道のようなものであるらしい。
見る者と見られる者の、真剣な儀式。
作法に則り、礼を尽くすことで独特の高揚をもたらす。

検討違いな思慮深さもまた生来のものである。

なるほど、人の世の習いは時としてまったく理解しがたいものであるが、これもそういう類のものだろう。
理に適うかどうかはさほど問題でなく、これはこういうものなのだ。

通常は観覧者が支払う見料を、何故か見せてくれた者が支払うという異様な習いとて、きっと一種のわびさびというやつなのである。

小生が手相を見る者として大成し、手相長者となる日も、あながち遠い先のことではない。






言葉は道具です。まず意思を伝えるためにありき、あとは用法・用量をよく守って使いましょう。
たとえば何らかの関係の悪化が頭を悩ませ、胸が痛んだら。
数ある言葉の用法の中で、もっとも効果が期待できるのは「説明」です。
対話が全てを解決するわけではありませんが、唯一「説明」だけは絶大な効果をもたらすでしょう。
特に誤解から生まれた衝突には是非「説明」をお試しください。
その他のいざこざ、すれ違い、及び紛争などには、残念ながら効果は薄いかもしれません。
実は「説明」は、どのような対話にも必ずといっていいほど含まれているのですが、そもそも意思や利害自体がぶつかりあっているのなら、それぞれが望む最善の結果は得られようはずがありません。
しかしながら、話している時間をかけている内に頭の血が下がったり、または利害の衝突がいつのまにか解消されていたりと、本来の言葉の機能とは別の効果が二次的につくこともありますので、とりあえずは話し始めてみることをお勧めします。
また、話しているうちに異なる意思が芽生えることもあります。
あるいは自分が認知していなかった意思に気付くこともあります。
その際はこのようにお考えください。
当初と比べて意思が質的・量的・方向的に少しでも変わったなら、既にその時点で新たな誤解が生じている、と。
なお、「説明」に関して言えば、用量に制限はありません。


バイバイと彼は言った。
すごいね、と僕は抱きしめた。
仕事でとても疲れていたからか、それともお腹が減って頭がくらくらしていたからか、腕の中から暖かさがじんわり伝わってくるのが心地よくて、それがまた胸を打った。
僕の知る限り初めての、意味を伴った言葉である。
それは単なる別れの挨拶という意味にとどまらず、彼が積極的に世界と交わろうと意思表示した、象徴的なハローでもある。
交わりは幸せを呼ぶけれど、同時にそれ以上の理不尽ややるせなさをも彼にもたらすかもしれない。
言葉に振り回されて、傷つくことだってたくさんあるだろう。
人間関係の艱難辛苦に敢然と立ち向かわんとする勇ましさよ。
彼は立派なヒーローだ。