精神病院で昔、ジャズ喫茶もやった経験があるという初老の男の患者さんに、死んだらどうなるか、と聞いてみたことがある。死んだら、骨と灰、と彼はその時に言った。実際、見る現実としてはそういうしかない。本邦は多く火葬だから絶対的にそうされる。 死ぬ本人にしても、死んだと言えるのかはよくわからぬ。死んだと言っている時には死んだから、何も言えなくなってしまう。正確に、その死ぬ瞬間に、死んだ、とはたぶん言えない。失神という経験は気を失う。しかし、気がつく。気づいてから、床にガラス片が散らばっているのを見る。脱衣所にいるのは思い出すまでもなかった。ふと、見ると、窓ガラスが割れている。旅館だから 掃きだしのガラス戸の感じだが、二階であり、フィクス窓である。旅館であるのも思い出すまでもなかったが、ガラス片がつながらない。何だろうとしばらく眺めて、あっ、俺ってこの窓にぶつかったの、となった。これ、割れているの、そういうこと?となった。飛び散った範囲がやや不自然な気もした。ならば隠喩だろう。では、この一件も夢の方向にわたしは目を覚ましてしまったのか。飛び散ったのは明らかにスペルマだから、ガラス片を見た、でいいのか。ぶつかって、窓ガラスを割って、脱衣所の方へ跳ね返された、というのもおかしいと言えばおかしい。どこにも怪我もしてなかった。夢と言えば夢だ。けれども、ありがたいと言えばありがたい。二階から落下したか、ガラスの刃にかかったろうから。そっち方向に考えれば、さらに無事でさらに楽しいかも知れない。ただし、一方は跳ね返ることもなく、死んだ、ということだろう。だとすれば、少なくとも男性であるかぎりはセックスは不可能性の可能性か。本当か?ガラス片? ややこしい。