物心がつくころから、私は他の子とは少し変わっていました。
初めて“それ”を見て、私だけしか見えていないことに気が付きました。
私は驚き母に話しましたが、母は「何も心配しないでいいのよ、あなたに何もしないから。でも見たことを誰にも話さないでね」と私の目を見て静かに諭しました。
一番印象に残っている出来事は私が小学1年生の秋に起きました。私の住んでいるマンションの隣の部屋に小学5年生の女の子が住んでいて、彼女は私を弟のように可愛がってくれていました。
日曜日の夕方、急に階下が騒がしくなり、救急車のサイレンの音が遠くから近づいてきて、マンションの前で止まりました。私は窓を開け見下ろすと、舗道に女の子が横たわっていました。私はすぐに隣のお姉さんだとわかりました。彼女は救急車に乗せられ、搬送されていきました。「可哀そうに」一緒に見ていた母はため息をついてつぶやきました。
翌朝、母から「ミッちゃんはもういないから、一人で学校に行きなさい」と言われ、マンションを出て学校に向かうと、ミッちゃんが私の前を歩いているのです。「ミッちゃん」私が声を掛けると、ミッちゃんは振り返り、微笑みました。私は走って駆け寄り、ミッちゃんの手を握ろうとしましたが、何度握ろうとしても感触がないのです。
それでも私はミッちゃんと学校まで一緒に歩きました。学校に着いて、私がスリッパを履いている間に、すでにミッちゃんは自分の教室へ入って行きました。私は急いでミッちゃんのいる教室に行ってみると、ミッちゃんは大柄な女の子が座っている横に立って、その子を黙って見ているのです。女の子はミッちゃんが横にいることに気づきません。授業開始のベルが鳴り、ミッちゃんは女の子に何かをするつもりかしら、と思いながら私は自分の教室へ急いで向かいました。
学校が終わり、帰宅すると母が暗い顔で出迎えました。
「ミッちゃんは学校で虐められたらしいの、ケンちゃんは学校で何かあったら必ずお母さんに話してね、いいわね」私は頷き、ミッちゃんが死んだことを受け入れました。今朝見たミッちゃんはやはり“それ”だったのです。
それから5年後のことです。私の住むマンションの通りを隔てた向かいに、バレエ教室ができました。ちょうど私の部屋からは教室で踊っている十人以上の女の子たちが見えました。そのバレエ教室が開校して半年経った頃、もう外は真っ暗でしたが、バレエ教室のある二階のベランダの端に白い羽を背負った大きな生き物が佇んでいました。私はペリカンがベランダにいると思いました(というのは、その何日か前に動物園からペリカンが逃げた、とのニュースをテレビで見ていましたので)。
その時、突然教室が慌ただしくなりました。少女たちの中の一番小柄な女の子がフロアに倒れています。足首を痛めたようで、その子は痛めた箇所を先生に教えています。先生はその子を抱き上げ窓際に置いてある椅子に座らせました。生徒たちがまた踊り始めるなか、先ほどの足首を痛めた女の子がベランダに出てきました。その子は足が痛いのか、あるいは他の子と一緒に踊れないことが悔しいのか、泣きじゃくっています。それにしても、すぐ近くにいるペリカンに女の子が気づかないのが不思議です。
その時です、ペリカンの羽が大きく広がり、手が見えたのです。すぐに私はペリカンではないことに気づきました。少年らしい横顔も見えました。何なんだ、あれは?いままで私が見た“それ”とは違うのです。少年は右手の手のひらを彼女の方に向け、ゆっくり動かしました。するとそれまで泣きじゃくっていた女の子の顔が明るく輝き、教室に入り、何かを話しかけています。先生が笑顔でその子の足をさすっていて、その子の足の痛みが回復したことをみんなが喜んでいます。私は呆気にとられていました。
ベランダにいる羽を背負った少年は、バレエ教室で起こっていることを見た後、羽がさらに広がり、スローモーションのようにゆっくりと動くと、身体が宙に浮かび、飛び始めました。ちょうど私の部屋の窓の高さに来た時、私と目が合いました。「天使だ」と私が叫ぶと、天使は一瞬微笑んだように見えましたが、夜空へと飛び去って行きました。何か夢の中の出来事のようで、私は天使の姿が小さくなり、やがて消えていった夜空をいつまでも見ていました。
その後の私は、年を経るにしたがって“それ”を見ることが少なくなっていきました。
大学三年生の秋のことです。大学病院の病棟が立ち並ぶ間をバス停へと歩いていた時、ふっと見上げると三階の窓に白い物が見えました。以前見た背中に白い羽を背負った天使がいたのです。12,3年ぶりでしょうか。天使はじっと動かず病室を見ています。私は天使が何を見ているのか興味を覚え、急いで病棟に飛び込み、階段を駆け上がりました。 天使が見ていた病室の前には多くの子供がいて、声を上げて泣いていました。ドアが半開きになっていましたので、中を見てみると、ベッドに真っ青な顔の女の子が寝ていて、医者や看護婦、それに両親らしい人が心配そうに女の子を見ています。ベッドの側には心電図が置かれているのですが、弱々しく動いていた心電図の波形が横に流れていき、死が訪れたことを知らせました。母親は女の子の名前を泣き叫び、父親は茫然としています。医者と看護婦は二人に頭を下げた後、病室を出ていきました。
私は窓に目をやりました。ブラインドの隙間から天使がいることがわかりました。そして、以前見たように天使は手を静かに動かしたのです。おもわず私は死んだ少女に目を移しました。すると少女が目を開けたのです。両親は驚き言葉もでません。慌てて父親は病室を出て、エレベーターに乗ろうとしていた医者に向かって「娘が生き返りました」と叫びました。
私はブラインドの隙間から娘を見ている天使の眼を見ました。そして天使は私を見返しました。その眼は「あの時の男の子だな、お前は私が見えるのか?」そんな意味を込めているような温かく慈愛に満ちたブルーの瞳でした。やがて天使はいなくなりました。
いったい天使はなぜこの女の子の命を救ったのか、不思議なことです。毎日のように世界中で多くの子供が災禍や病気で命を落としています。この女の子は何か特別な使命でもあるのでしょうか?人類のために将来活躍するような人間なのでしようか?
その後天使を見たのは一度だけです。その時を最後に見ることは無くなりました。もう“それ”を見ることもありません。
大学4年の冬、クリスマスの夜、私は恋人と待ち合わせているレストランへと向かっていました。ただ私の足取りは重く、彼女を失望させる、と思うと気持ちが沈んでしまいます。 私のポケットには1200円しかないのです。クリスマスプレゼントを買えるようなお金はありません。とにかく大学生活は貧乏でした。それでも自分を卑屈に思うことはありませんでした。生来の楽天家のうえ、自分の将来が見えていましたし、そのためにがむしゃらに勉強していました。ヨット部の活動は大いに楽しんでいましたので、大学生活が苦しいなんて考えもしませんでした。
ただ三か月前恋人ができてから大変な思いをしていました。一緒に歩いてばかりいるわけにもいかず、たまには食事をしたり、映画を見に行ったりするものですから、友人からお金を借りることもありました。
少し早く着きそうなので、レストランの手前にある公園で時間をつぶそうと考えました。公園の入り口に入ろうとしたとき、暗がりから二人の少年が飛び出してきました。危うくぶつかりそうになりましたが、私は何とか身をひねって衝突をさけました。二人は謝ることもなく走っていきます。私は二人の後姿を見ていましたが、二人は信号が赤なのに道路を横切ろうとして、直進してきたトラックに跳ね飛ばされたのです。トラックから運転手がでてきて「何やってんだ、お前ら」と怒鳴っています。見物人も集まり出しました。
私は公園の中に入って行きました。なぜ二人が何かに逃げるように飛び出してきたのか知りたかったのです。すぐにその理由がわかりました。
公園の奥にはトイレと水飲み場があり、外灯がその周囲を照らしています。その外灯が照らす輪の中に子犬が横たわっていました。さわってもぴくりともしません。多分あの二人が何らかの方法で殺したのでしょう。抱き上げるとまだ温もりがありました。私の両手のなかに入るくらいの子犬でした。
私は子犬を手に乗せたままベンチに座りました。子供の時以来でしょうか、涙が止まりませんでした。いったこんなかわいい子犬を殺す人間がこの世にいることに憤りを覚え、やるせなくなってくるのです。何もできない自分がふがいない駄目な人だと思えてくるのです。そのうえ今夜はクリスマスで恋人にプレゼントもできません。こんなに自分が無力なのを感じたことはありません。子犬の体に私の涙がぽとぽと落ちた時、突然私の前に天使が立っていたのです。何時現れたのか全然気がつきませんでした。私は茫然と天使の顔を見上げました。天使は私が両手に乗せている子犬の亡骸を両手で被せるようにしたあと、背中の羽が開き始めました。羽がゆっくりと大きく開いてから天使は夜空へ飛んで行きました。ほんの2,3分のことでしたが、私は永遠の時間のように感じました。天使の醸し出すオーラと存在感は圧倒的でした。私は息をすることさえ忘れそうになりました。
その時です、私の両手に横たわっていた犬が起き上がったのです。とても信じられない出来事でした。子犬を地面に置くと走り回りました。走り回った後で私の足元に戻ってきました。
それで私は思いついたのです。この子犬を彼女へのプレゼントにしょうと。
動物好きの彼女は喜んでくれました。まさか、一度死んだ犬を天使が蘇らせた、と話しても信じてもらえないでしょう。
私たちは私が大学を卒業した年の秋に結婚しました。もちろん子犬も一緒です。
子犬の犬種はワイマナラーでした。ドイツ産で貴族に愛された犬だと、動物図鑑には記載されていました。子犬の時、瞳はブルーでしたが成犬になるにつれて茶色になりました。変わった犬で、にらめっこをすると絶対に目を逸らさないのです。あるとき、にらめっこをしていて、私はふざけて彼の鼻を噛んだことがありますが、瞬時に彼は私の鼻を嚙み返えしました。痛くは無く、絶妙なころ合いで噛んだので、私は感心し、それ以後は彼を一人前の犬として丁重に扱いました。時々私は、もしかしたら天使が犬になり替わっているのでは、と思っていましたので。
20年経って彼は、名前はAlexといいますが、今年の六月に亡くなりました。このブログに添付されている写真が彼です。約20年間一緒に暮らしたことになります。よかったのかどうかわかりませんが、火葬にしてお坊さんにお経をあげてもらいました。
彼が亡くなって二週間が経ったころ、彼が住んでいた犬小屋を廃棄するため運び出した時、何と彼の犬小屋の奥に一本の白い羽があったのです。鳥の羽ではないと思いますが、見たことのない長さです。もしかしたらAlexは本当に天使だったのでは、と思ってしまいます。
二度と天使を見ることはなくなりました。