3年ぶりのエントリーになる。
 そして今回もまた将棋の話。

 2018年2月に藤井聡太がデビュー2年目で朝日杯で優勝したが、その2週間前に順位戦での昇級を決めて五段に昇段したばかりなのに、この優勝でさらに六段に昇段し、そういった状況でやたら藤井聡太の名前がネット記事のあちこちで目に付くようになった。還暦をとっくに過ぎた私が、子供時代以来再び将棋というものに目を向けのめり込んでいくようになった、これがその切っ掛けである。それから5年余りが過ぎ、聡太は今やタイトル六冠に達し、七冠目の名人位に挑みつつある。だが、今回のエントリーの話題はそうした聡太の活躍ぶりではない。

 聡太の活躍に刺激を受けて、私も超初心者ながら、ネットの将棋サイトを利用して指し将棋を楽しむようになった。以前は“ハム将棋”だったが、それが利用できなくなってからはもっぱら“きのあ将棋”を利用させてもらっている。設定された数種類の対局相手キャラクターの中で初心者向けの弱いキャラを相手ではあるが、9割前後の勝率を達成する程度の棋力は備えるに至った。
 さて本題に入るが、私は対局の最終盤で敵玉を詰める際には、なるべく“安い駒”を用いるようにしている。その最たるものは言うまでもなく“歩”である。もちろん“打ち歩詰め”にならない限りでのことではある。それがどうした、と言われるであろうが、将棋界には一種の“武士の情け”を重んじる古風な美学も残っていて、敵玉を仕留める際には敬意を表してなるべく“高い駒”を充てるべきだ、という考え方があるらしいのだ。そして私は、これはこれで麗しい良き日本的な感性だと思うし、そういう考え方や感覚も尊重したいとは思う。だが私自身は、上記のように、それとは真逆のやり方を敢えてしている。
 理由は簡単で、いずれもよく働いてくれた自軍の各駒のうちで、いちばん地味な日の当たらない“安い駒”に手柄を立てさせてやりたいからである。とりわけ“歩”は、常に最前線に立ち、敵の矢を身に受け、自らの死によって後続の将駒の活躍の道を開く。飛車角の大駒や金銀のエリート将駒の華々しい活躍を下準備するのはつねに地味な下級駒、とりわけ“歩”なのである。彼らこそが戦端を切り開き、有利な戦況を導くための犠牲となってくれるのである。そんな彼らのうちの生き残った者に、最後の栄誉を授けたいと思うのは指揮官として当然の感情であろう。
 伝統的な美学も結構であり、それはそれで将棋というゲームが醸し出す美風の一つだと思う。しかし他方で、“将棋”というのは盤上の“戦(いくさ)”なのであり、“殺し合い”のゲームでもあるのだ。人間同士の命を賭した戦いにともなう緊張感や非情さといったものも、本来は備えていたはずだというのが私の将棋観である。いつか何かで読んだ記憶があるが、将棋盤を裏返すとそこには窪みがあるが、それは俗に“血だまり”と言われるものらしい。一説に拠れば、これは余計な口出しをする盤側の観戦者がいれば、見せしめのためにその首を切って据えるためのものだと言う。本来の将棋はそれほどまでの“真剣勝負”だったのであり、“戦い”というものの厳しさや非情さという側面も将棋は備えているはずなのである。“常在戦場”という格言があるが、平和で安穏とした日常生活に浸り切って弛緩した人生を送っている人には、それを反省する切っ掛けを与えてくれるかもしれない。