僕がフィリピンを終の棲家と決めた理由 | フィリピン良いとこ、一度はおいで ~不良ジジイのフィリピン日記~

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フィリピンは住めば住むほど人生気楽になるよ、まずは僕の話を聞いてから一度遊びにいらっしゃい。

僕はフィリピンの事を長々と書いてきたが、なぜ僕が此のフィリピンを終の棲家にしようと決めたかに関して書いてみたい。

僕は子供のころから商社マンに憧れていた。僕の叔父がネシアで15年以上ビジネスをやっていて戦後は商社を起こして東南アジアを中心に仕事をしているのを見て育ち、商社マンを目指したと言う訳だ。大学を卒業して憧れの商社マンと成ったが配属されたのが繊維部隊で、内地のビジネスが中心で一部輸入の原料を扱っていた部隊へと配属となった。

僕はこの部隊で8年間徹底的にビジネスを叩きこまれて、その後アフリカへの駐在となった。ガーナに5年間勤務後、本社勤務と成り2年間中近東、アフリカの担当と成って、1年の内7-8ヶ月を海外出張で飛び回っていた。そして大きなプロジェクトを取るべくナイジェリアに赴任と成り、3年間をそこで過したのである。

此の10年間は日本の家族を殆ど顧みることなく仕事に没頭していたのだ。ナイジェリアより帰国した頃には娘は高校の高学年に、息子は高校の低学年に育っていた。正に‘親は無くても子は育つ’の言葉通りに成長してしまっていた。

此の10年間の空白は僕にとってはトテモ大きな問題だった。まず子供達と会話をする機会も無いし、カミサンともどんな会話をして良いかが自分でも分らなくなっていたんだ。長い間アフリカに単身赴任していた父親である僕を家族は心配して色々気を使ってくれているのは十分わかっていたが、僕自身が何となく浮き上がっているような気分にとらわれていた。

ナイジェリアより帰任して2年後に僕は自分から希望してフィリピン赴任となった。東南アジアでの勤務こそが僕が若い頃から夢見てきた事なんだ。僕はカミサンと相談した、今度は東南アジアなのでカミサンも僕に同行してくれると思っていた。カミサンが‘お父さん、フィリピンは近い所だし、私がいかなくても、お父さんが簡単に帰ってこられるじゃない、私は東京でお留守番しているわ’言ったんだ。僕は是でカミサンの意思を明確に理解した、要するに今更海外駐在に同行したくないと言う事である。

僕は夫婦と言うのはどんな所でも一緒という家に育てられたので、実を言うとかなりがっかりした。僕の母親は親分肌の結構豪快な女性だった。父親が銀行に勤務していた都合上、母はいつも父と共に赴任先に同行していた。僕は高校、大学と祖母と暮らしていたぐらいだ。別に母に文句を言った訳ではないが、母ご僕にこう言ったんだ、‘貴方が生まれたのは結果に過ぎないのよ、私がお父さんについて行くのは当たり前でしょ’と。

父がマレーシアのクアラルンプールの駐在になった時に、父がまず赴任して半年後に母が赴任先に行く事になった。ある時母が「これを見ろ」とばかりに父からの手紙を見せてくれた、僕はその手紙を読んで正直言って本当にビックリした、‘君がいない生活なんて考えられない’と書いてあり、面々と‘早く来て欲しい’と綴っていた。20歳ぐらいの若者の手紙なら考えられない事は無いが、父は間違いなく50歳を超えていたはずだ。僕は父がそんなに母を愛しているのかと、実を言うと少し呆れてしまったぐらいだったんだ。生意気にも‘俺はそんな気にまではなんねーナ’と思ったくらいだ。それから母は僕達兄弟を残して父の赴任先に嬉しそうに飛んで行った。

こう言った家に僕は育ったのでカミサンが僕に同行するのは当然だろうと思ったが以外な答えが返って来たのだ。僕が一番大切にしている考えは‘誰でも自分の思った通りに生きる権利が有る’と言う事なのだ。だからたとえ自分のカミサンであろうと‘ついてこい’とは到底言えなかった。

フィリピンの駐在と成ると最低でも5年は駐在する、もっと長くなる方が多い。帰任する頃には子供達はみんな大学を卒業して社会人になってしまう。僕は、「家族は常に一つ」と言う事にとうとう失敗した訳だ。

僕は子供が大好きで、特に長女は僕の初めての子供なんで、めちゃくちゃに可愛がった、娘が5歳の頃に僕がアフリカの駐在と成り、駐在を終えて戻った時は高校生の難しい時期に入っていて、残念だったが子育てをするチャンスが全失われていた訳だ。そして其の時は子供達との会話が殆ど無くなっていたのだ。

こう言った家庭の事情も有って僕はフィリピン駐在の時に自分としての決断をしていた。それはフィリピンを僕の終の棲家にするべく、赴任したらその準備の為に最大の努力をする事、フィリピンで新しい家族を作って、出来るだけマニラを離れないで僕が一番したかった子育てを自分に納得いくまでやろうと言う二つの事だった。だからと言って日本の家族を捨てるような事はしないと言う決心もしていた。

僕はフィリピンに赴任してから、如何したらフィリピンに住みつけるかを色々考えてみた、まずはフィリピンにおける自分のポジションを固めなければならないので仕事に集中して自分の市場の拡大を図った。

こうして仕事に集中している内に現在一緒に暮らしている女性と出合った。彼女と付き合っている内に彼女が僕の事を大切にしてくれる事が分かり、彼女ともう一度家族を作る事を決心した。それは今から22年も前の事である。でも僕の勤務していた会社は東京に本社を置く商社である事より如何なるスキャンダルを起こしても即帰任と成るので、この面では慎重であった。

駐在7年目に専務がやって来て僕に‘そろそろ帰国しろ、それなりのポジションは用意してやる’と仰って下さった。僕は考えた、日本に居る娘は既に大学を終えて就職していたし息子も大学生になっていた。それに僕抜きでの家族として完全にまとまっており、僕が帰ってもむしろ邪魔になるのではないかと恐れた。むろん帰国したら日本の家族にそれなりに気を使って貰える事は十分認識していたが、僕が海外に出て20年近くも単身赴任をしていて、日本の家族との接触は殆どなかった事より、日本に帰国する事に強い抵抗を持ったのである。

自分が定年になった場合の事を考えると、此の二人の子供にいつ世話になるか分らない。僕が老人になった時に、子供達が僕の世話を嫌とは言わないと思うが、僕自身が彼等の迷惑になるような事は絶対避けたいと強く思うようになっていた。それにフィリピンの生活に慣れてきており、此の国では家族はいつも一緒にいる事、老人が大切にされる事等を考えて、僕がフィリピンに赴任するときに決心した通り、フィリピンに終の棲家を構えるべきとの考えが確固たるものと成ったのだ。

専務に帰任したくない旨を伝えると共にフィリピンで新たな勤務先を探したいと相談した。専務は今の会社に残るのが一番安全であること、これから新しくやっても困難が待っているだけだからと慰留して下さった。でも僕の決心が変わらないので、‘如何してだ、女でも出来たのか?’と専務が聞いてきた。僕が‘はい、そうです’と答えると‘それじゃ、仕方ないな’とだけ言って下さった。
その後、専務が色々と手を尽くして下さって、僕は中小企業の現地子会社の社長として新たに雇用されてフィリピンへの居残りが決まったのだ。

商社を辞めて中小企業の親父となったが、それから十年近く辛酸をなめる事になるとはその時は思いもよらなかった。

次回は商社を辞めてから現在に至るまでを書いて、僕の長い思い出話を終了とさせたい。



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