ゴールデントライアングルと呼ばれた男の天国を行く | フィリピン良いとこ、一度はおいで ~不良ジジイのフィリピン日記~

フィリピン良いとこ、一度はおいで ~不良ジジイのフィリピン日記~

フィリピンは住めば住むほど人生気楽になるよ、まずは僕の話を聞いてから一度遊びにいらっしゃい。

ナイジェリアから戻った僕が余りに元気がなくなっているのを見て専務が或る日の事僕をデスクに呼んでくれた。‘おい田中、お前帰って来てからなんだか元気がないぞ、如何した’と心配そうに聞いてくれた。‘僕は、いえ大丈夫です’と無理やり微笑んで見たが、がっくりと疲れていた事は確かだ。それにしてもおえらさん達は部下の事を良く見ているなと内心ビックリした。

それから数日たって僕の直接のボスより呼び出しが有って、‘君には今後東南アジアのマーケットを担当して貰うよ’と仰せつかった。更に付け加えて‘来週から2週間ばかりゴールデントライアングルを回ってこい’と言われたのだ。ジャカルタ、バンコク、マニラとまるで男の天国に出張して来いと言われた事になる。

僕はハタと思い当たった。専務が僕に声を掛けてくれたあとに僕の上司と暫く話していた、専務が‘田中に少し休養を与えろ’と言ってくれたに違いない。専務は仕事の鬼と言えるほどバリバリの仕事人で僕ですらあんな仕事好きな人にはついて行けねーと悲鳴を上げるほど仕事をする人だった。

その専務といつも組んでいたのが名物の常務で此の御二人とも極めて難しい人で話を聞いてもらうには相当緊張して近づいたものだ。特に常務は難しいお方だった、でも部下の面倒見が凄く良かったのでおっかなかったが何とかついて行こうと努力したよ。

僕は旅行の計画を立てて出発した。まず最初に入ったのがシンガポールで有る、ここには別に商売になるようなものは無いが東南アジアの玄関口で久し振りの訪問で有った。巨大な空港に‘すげー’と思った事を思い出す。

そして次にジャカルタへと寄った。駐在員達は僕のリハビリ旅行と聞いていたのだろう、仕事らしい仕事の話は無くゴルフやら町に見物などに連れて行ってくれる、ご厚意に甘えてすっかり手足を伸ばして楽しんだ。夜になって町一番のキャバレーに連れて行ってもらった。中々の美形が揃っていた、気に入った娘を指名して段々調子が上がってきて大声で話している内に僕の指名した女性が席を外したまま戻ってこない、他の連中のご指名はみな同席している。

僕は若い駐在員に‘おい俺みたいな色男の所に何で女性が来ないんだ’と絡んだ。彼は‘ジャカルタの女性は先輩みたいな柄の悪い奴の傍によりつかないですよ’と冷たくぬかしやがった。僕は‘やっぱりモスレムの国の女は面白かねーナ’と毒づいたがその後女性は誰もついてくれなかった。

僕は一人で外に出てそのままホテルに戻った。残った連中はホッとしたような顔で僕を見送っていた。

こんな訳で僕のインドネシアに対する印象は極めて面白くない物となった。

次に行ったのがバンコクで有る。ここでも同じような大接待を受けた。通常本社の出張者にこんな気遣いはしないが、多分専務より頼まれていると伝わったのだろう。僕は凄い上司に恵まれていたんだ、でも思えば思うほど専務が僕如きにこのような者を心配をしてくれたことへの感謝の気持ちが湧きあがって来る。

バンコクの最高級のキャバレーでパーティーをやってもらった。タイの女性は中国系がトテモ美形だが、アフリカでは想像もつかない美人が揃っていた。僕は大満足であった、何しろジャカルタと違って女性達がトテモ親切なのだ。僕は舞い上がる自分を一生懸命抑えて紳士の如くに振舞っていた。夜のお誘いの一つもしたいのだが言葉が全く通じないんだ。駐在の連中は流暢にタイ語を操って新密度を増すばかりである。

ここでも僕は一番大事な意思疎通が出来ないで寂しく宿に戻る事になった。でもバンコクの夜はアフリカを忘れさせてくれるには充分過ぎるほど楽しめた所だった。数日バンコクを堪能した後でマニラへと最終の寄港地に向かった。

マニラ空港に降り立った時にこれまで立ち寄ってきた空港のどれとも比較できないほど貧相な空港で可なり遅れている国に来たなと言うのが第一印象となった。

イミグレーションに向かって手荷物を肩にかけながら歩いていると歌声が聞こえてきた。前の方にフィリピンの伝統的衣装を身に付けた若い娘達7-8人がウクレレを弾きながらウェルカムソングで乗客たちを迎えてくれているのだ。

乗客たちは足早に彼女達の前を通り過ぎて行った。僕は丁度彼女達の前に来た時に足を止めた、娘さん全員が謳いながら僕を見てにっこりほほ笑んでくれた、僕は‘天国にやってきたんだ’と興奮した。その時だ、僕の心が叫んだ‘ここだ、ここがお前が永住する国だ’と。

僕はただにこにこ笑いながら娘さん達の顔を見ていた。彼女達も僕の目をまっすぐに見て僕にとろけそうな頬笑みを送ってくれる、ずーとそこにいたかったが、やっとの事荷物を肩にかけなおして、何度も振り返りながらイミグレーションまで行った。

イミグレーションに女性の担当官が多いのにも驚いた、他の空港はみな機械的だがここでも素敵な微笑みをくれた。僕は此の時からフィリピンの虜になってしまった。

僕を本当にリラックスさせてくれたもう一つの理由はフィリピンでは何処でも英語が通じるのだ、これなら僕はかなり自信がある。ジャカルタやバンコクで味わった屈辱感がなく、連日連夜繰り出してマニラの生活をエンジョイした。

帰国後僕はすっかり元気になり元の快活な男になって居た、むろん仕事もやる気満々と成って行ったのだ。

その後2年が過ぎてアジア各国でのビジネスも軌道に乗ってきた頃に僕の将来を決定する出来事が起こった。課内で僕を関連会社に出向させる話が出始めていたのだ。

僕は新しい課長とあまりうまくいっていなかった事及び部隊の仕事自体が激減してきた事もあり、課長より出向の話が出た。僕は会社の命令なら何処にでも行くつもりだったので‘ああ良いですよ’と答えた。

その頃また専務より呼び出しを受けた、‘君を北海道に出向させたいとの話しが出ているが、‘君がいきたくなければ断っていいぞ’と言われた。そこで僕は専務に‘東南アジアの駐在に出して頂けますか’と聞いたら、専務は‘分った俺が人事に話をつけるから課長に北海道に行きたくないと話して来い’と僕に言ってくれた。

僕は課長の所に行って‘専務が僕を出向させるのは反対だと仰っています、僕は社の命令なら何処でも行きますから、今すぐ専務の所に行って僕を如何しても北海道に出向させると話して下さい’と課長に言った。課長はビビって僕を見つめていた、そして専務を振り返った。3日後に僕の出向は取り消しと成って海外駐在が決まった。専務より‘何処に行きたいか’と聞かれたのでその場でマニラへの駐在をお願いした。

これが、僕が3度目の駐在地としてマニラに赴任する事となった理由である。このマニラへの駐在が僕の人生にとっての大きな転機となった。



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