「私は、何が起きているのかも分からなかった」



 笹塚が登場してからというもの、今の今まで黙っていた初子が、この時ようやく口を開いた。



「何度も転びそうになりながら、必死で久弥さんに手を引かれて歩いて、戻り橋まで辿り着いた時は、だからほっとしたわ。これでうちに帰れるって。だけど……」

「……」



 ──ふと。
 言葉を途切れさせた初子の背後の、闇が揺らめいた気がして、笹塚は眉根を寄せた。


 こんな道すがら、怪談よろしくな話をしているから、変な気分になってきただけだろうか。
 気になって久弥の方にも目を向けたが、彼は何も感じていないようである。



「それで」
「彼女が見たのは、怯えて後退る僕だった。それを見て、彼女も振り返ってしまったんだ」



 振り返った幼い初子は、当然悲鳴を上げて腰の引けた久弥に追いすがった。



「あの時、僕が取り乱していなければ、川面を見るように叫べたと思う」



 ──しかし、澄んだ水面を見た久弥の目は、それで洗い流されたように、現実以外の何物も映さなくなっていた。



「だからそのまま彼女の手を引いて、郷まで連れてきてしまったんだ──異形のものごと」
「あの爺さんが云っていたのはそのことだったのか……」
「ああ。そして真っ先に僕の両親は命を落とした。お披露目をする前に」



 久弥は目を瞑って空を仰いだ。


 本当なら守られていた筈の両親が、亡くなった理由は分からない。

 けれど恐らく――息子の身を守る為に、何らかの行動をとった結果、だったのだろうと思う。



「だから僕には、あの物の怪どもから何を守る力もない……己の身に危害を加えられぬだけで」
「そして私の傍にいる人は……必ず遠からず命を落とす。彼等に呼ばれて」

「そんな、ことが……」



 笹塚は思わず荒い息をついた。

 ない──とは云えなかった。現実に人は死んでいる。
 けれど、自分もまた見えないが為に、そして彼等のような体験すらしたことがないが為に、この突飛な話を鵜呑みにすることも出来なかった。


 ただ……恐ろしかった。
 静まりかえったこの場所も、何が潜んでいても分からぬような暗闇も──目の前にいる、このよく見知った二人さえ。



「笹塚君」


 久弥が苦笑まじりに呼びかけた。
 歩みを止めたそこはもう、戻り橋だった。


「これでも僕を……まだ友人と呼んでくれるかい」
「それは」
「とても呼べないだろう、君が友人と呼んできた男は、こんな得体の知れない正体をしている」



 ──だから僕は、彼女と消えてしまいたいのだよ。



「君に知己と思われているうちに、僕は姿を消してしまいたい」
「……この」



 馬鹿野郎が、という罵声と共に殴り飛ばされ、久弥は橋の向こうまで転がった。
 その久弥に笹塚は、大声で怒鳴る。



「そんな台詞で、誰がこの夜中にすごすごと一人引き返すか、相手を見て云え、相手を」



 殴られた衝撃で少しの間ぽうっとした久弥は、笹塚の台詞にふわりと微笑った。



「……そう云えば、そうだった」



 憑き物が落ちたような久弥の表情に、笹塚も思わず笑む。
 そして橋を渡り始めた。


 その時だった。



「──初ちゃんっ」



 目の前で座り込んでいた久弥が、顔色を変えた。

 笹塚の背後で、何かが起きているのは確かだった。
 反射的に笹塚も振り返りかけ。



「莫迦っ、君まで向こうに引きずられたいのか、早く来いっ」



 久弥の台詞に引き留められた。
 云われたとおり振り返らず、急いで橋を渡り終え、ようやく対岸を振り返ると。



「私はこのまま、あちらに参ります」



 向こう岸で立ち止まったままの初子がそこにいた。



「そんな、初ちゃん……初子さんっ」



 初子の言葉に、今来た道を戻ろうとする久弥を、笹塚は羽交い締めにする。



「笹塚、離せっ」
「厭だね、君が追ったところでどうにもならんよ。それっくらい分かっているんだろう」



 笹塚の静かな声に、久弥の抵抗の力が僅かに弱まった。



「……」



 川越しに。

 その一部始終をじっと見つめていた彼女は、まず笹塚に丁寧に頭を下げ、次に久弥を見て薄く笑んだ。



(……この世に留まりたいならば、振り返らずに立ち去ることだ……)


 古くからの言い伝えが、久弥と笹塚の脳裏に同時に浮かぶ。
 彼女は何処に行こうとしている──。

 二人の男の疑問に応えるように、初子が口を開いた。



「圭一郎さんが、迎えにいらしてくれました」



 云って、背後の暗がりを振り返る。
 そしてこちらを見返り、この上なく倖せそうに微笑んだ。


 真っ青な顔をした久弥が隣で息を呑むのが分かった。
 囁くような声だったが、それはやけにはっきりと笹塚の耳に届いた。



「狩野さん……」



 一体、何処にいるというのか。
 目を幾ら凝らしたところで、対岸自体が得体の知れぬ闇に覆われているような状態では判然としなかった。



「駄目だ、そっちへ行っちゃいけない」



 笹塚の腕の中で身体を捩り、戻り橋の方へ半ば乗りだしながら。



「初子さんっ」



 久弥が懸命に叫ぶ。
 けれど初子はもう、振り返りはしなかった。



「初子さん……っ」



 久弥の目の前で、初子の姿はやがて闇に包まれ、消えていった。






黄昏に 消ゆる影さへ 泡沫の 夢と見紛う

─ 了 ─