「違う、違う……」


 袂で無意識に手を拭いながら、久弥はひたすらに夜の畦道を駆けていた。
 その昔、戻り橋の向こうに初子を置き去りにしたのは幼い己だ。
 けれど狩野を殺めたのは断じて自分ではない。


「違う……っ」


 自分ではない、そう思う──けれど、真実自分の所為でないと言い切れるだろうか。
 疑いの念はどうしても拭えなかった。


 ──初子と圭一郎が出逢った時。
 ──彼女の口から圭一郎の名前を何度も耳にするようになった時。


 いずれは、と予感を抱かせた数々の出来事を感じた時。
 一度でも狩野に対して、灼けつくような妬みを、恨みを感じたことがなかっただろうか。


 ……ない。
 そう断言することは流石に出来なかった。
 あの寂しい葬儀で、ちらりと掠めた後ろめたい気持ちを、自分は覚えている。
 それでも。


「あんなおぞましいことを願ったわけぢゃない……」


 脳裏に浮かんだのは紅の夢。
 久弥はまた無意識に両手を拭った。


 夢は夢だという想いと、何らかの関連性に怯える心とが、彼の中でせめぎ合っていた。
 笹塚に話したならば『嫉妬による罪悪感が見せた悪夢』とでも口にしそうだと──そんなことを考えつつも、単なる夢で片づけていいものか、迷う気持ちがどこかにあった。


 ……殺す術もないというのに。
 離れた相手を呪い殺す力でも持っている、というならともかく。


「大体、そんなことが出来たってどうにもならない……」


 圭一郎がこの世から消えたことで、一番痛手を受けたのはある意味久弥なのだ。
 どちらかの気持ちが冷めたのであれば──圭一郎が初子を捨てたのであれば、一抹の期待も持てたかも知れない。


 が、亡くなった者には敵わない。
 初子が想いを他に向ける気がなければ、久弥は行き場のない気持ちを抱えるだけ。


「僕には彼女を救うことすら出来やしないんだ」


 初子を癒せるのは時間だけ……圭一郎に、死に別れた夫に逢う術などないのだから。
 ──元郷の言い伝えが真実でなければ。


「戻り橋……」


 呟いた久弥の胸に、ちりりと痛みが走った。
 自分は、何かを忘れている気がする。この焦燥感も、悪夢も、全て元は一つであるような。


「そんなまさか……」


 思い当たるフシなど欠片もなかった──まだこの時は。